新横浜ラーメン博物館・あの銘店をもう一度

「一風堂」創業者が自ら厨房に立つ! 「白丸」「赤丸」誕生前の“原点のラーメン”がラー博で限定復活

「一風堂 1994」

新横浜ラーメン博物館(横浜市)は、30周年を迎える2024年へ向けた取り組みとして、過去に出店した約40店舗が2年間かけて3週間のリレー形式で出店するプロジェクト「あの銘店をもう一度」を2022年7月1日から始めています…

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新横浜ラーメン博物館(横浜市)は、30周年を迎える2024年へ向けた取り組みとして、過去に出店した約40店舗が2年間かけて3週間のリレー形式で出店するプロジェクト「あの銘店をもう一度」を2022年7月1日から始めています。同年11月7日からは、1994(平成6)年のラー博開業時の店舗(現在も出店中の熊本「こむらさき」を除く7店舗)が、リレー形式で約3~4カ月ほど出店する「あの銘店をもう一度“94年組”」もスタート。この各プロジェクトにあわせ、店舗を紹介する記事の連載も同時に進行中です。新横浜ラーメン博物館の協力を得て、「おとなの週末Web」でも掲載します。

創業39年目の「THANK YOU=ありがとう!」

あの銘店をもう一度“94年組”の第6弾は博多「一風堂1994」さんです。今回は、1994年当時の味を再現。「一風堂」創業から39年目に入ったことを記念し、「39(さんきゅー)」=「Thank you(ありがとう)」と感謝の意味を込めて、ほかにもさまざまなメニューが復活します。

期間中のスケジュール(2024年1月24日現在)

【あの銘店をもう一度“94年組”・第6弾・「一風堂1994」】
出店期間:2024年2月9日(金)~2024年5月12日(日)予定
出店場所:横浜市港北区新横浜2-14-21 
     新横浜ラーメン博物館地下1階
     ※あの銘店をもう一度“94年組”第5弾「すみれ1994」の場所
営業時間:新横浜ラーメン博物館の営業に準じる

・過去のラー博出店期間
1994年3月6日~2001年6月3日

1994年当時の一風堂ラー博店外観

岩岡洋志・新横浜ラーメン博物館館長のコメント「一風堂創業者が約3カ月間厨房に立つのはなかなか見られない光景、生き様を感じ取っていただければ」

一風堂、河原成美さんとの出会いはコラムの方に書かせていただいているのでそちらをじっくり読んでいただければと思います。今回は94年組としてご出店いただくため、私が河原さんと出会った頃の味(ポタージュのような豚骨スープ)が食べられるということに大変ワクワクしております。なおかつ、期間中、河原さんが新横浜に常駐していただけるというのも本当に嬉しいです。

94年組は、第1弾「勝丸」の店主・後藤さんが、80歳にもかかわらず期間中、休まず働いたことが導火線となり、2月5日までご出店いただいた「すみれ」の村中さんまで、創業者が厨房に立つ習慣が連鎖しております。まさにリレーだと思いますし、先輩たちは本当に凄いなと思います。

一風堂創業者が約3カ月間、厨房に立つというのはなかなか見られない光景ですので、是非この機会にラーメンだけでなく、その生き様だったり、空気を感じ取っていただければ幸いです。

“原点のラーメン”

1985年10月に福岡・大名で創業

一風堂の創業は1985年10月16日。福岡市中央区大名1-13-5に誕生しました。

創業者の河原成美(かわはらしげみ)さんは、1952年12月18日、福岡県三潴郡城島町(現久留米市)生まれ。

「一風堂」創業者の河原成美さん

大学卒業後、役者を目指していた河原さんは、お兄さんから「友達の店が閉店するので、バーをやってみないか」と勧められ、1979年11月16日、博多駅近くのわずか5坪ほどの場所に「AFTER THE RAIN」(アフター・ザ・レイン)を開業します。河原さんが26歳の時でした。店は繁盛し、3年後には念願だった九州最大の繁華街・天神(てんじん)の20坪の場所に移転して、月商500万~600万の店へと進化を遂げました。

「AFTER THE RAIN」時代の河原さん

河原さんは「33歳までにもう1店出店し、35歳までに天職を見つける」という目標を定めていました。

友人やお客さんからは「繁盛しているから2号店を出せばいいじゃないか」という意見が大半でしたが、河原さんは「それではつまらない。もっとみんなが驚くようなことをしたい」と考えていた中、普段からラーメンを食べ歩いていた河原さんの脳裏に「ラーメン店」という構想が巡りました。

「AFTER THE RAIN」にくるお客さんに「ラーメンは好きか?」と聞くと、誰もが「好き」と答えるのですが、特に女性は「好きだけどあまり行かない」という回答がほとんどでした。博多に限らず、当時のラーメン店は「汚い・臭い・怖い」というイメージが強く特に女性客が気軽に入れるお店がほとんどありませんでした。

そこにヒントを得た河原さんは「だったら女性が1人でも気軽に入れるかっこう良いラーメン店を作り、福岡中の女性が集まるようなお店にしよう!」と、目標に定めたもう1店のお店をラーメン店にすることを決心しました。

「AFTER THE RAIN」時代の河原さん

「教えてほしいなら100万円を持ってきなさい」

しかし、バーは経営しているものの、ラーメンに関しては未経験。そこで「AFTER THE RAIN」のお客さんにラーメン店の息子さんがいたので、河原さんは「親父を紹介してくれ、無給で良いから働かせてくれ!」と頼んだのです。いざそのラーメン店(「長浜一番」)にお願いに行くと「技術を教えてほしいなら100万持ってきなさい」と言われ、河原さんはびっくりしながらも100万円を払い、修業を開始しました。

夜は「AFTER THE RAIN」をやりながら1年間修業をし、時間が少しでもできたときは全国の有名店を食べ歩き、研究を重ねました。

そして目標としていた33歳の1985年10月16日、博多「一風堂」を大名に創業します。

大名本店の前に立つ河原さん(1986年撮影)

一風堂=「ラーメン界に一陣の風を吹かせたい!」

店名の由来は「ラーメン界に一陣の風を吹かせたい!」という想いと、当時好きだったバンドの「一風堂」から名づけたとのことです。

お店は10坪程度の広さで、最初は思ったよりもお客さんは少なかったものの、女性客が気軽に入れるという今までにないおしゃれなお店だったこともあり、口コミで徐々にお客さんは増え、1年後には1日200人のお客さんが訪れる繁盛店となりました。

大名本店時代の店内(1986年撮影)

しかし、一風堂は順調に利益を出していたものの、その後ロードサイド型のラーメン店「爽風亭(1988年)」や居酒屋などを展開したものの思うように利益が出ず、資金的にも厳しくなってきました。そんな中、新横浜ラーメン博物館への出店の話が舞い込んできたのです。

何故「一風堂」だったのか?「革新的な味に惹かれた.」

当時、博多のラーメンシーンは「赤のれん」、「ふくちゃんラーメン」、「しばらく」、「八ちゃんラーメン」など、新旧の勢いがあるお店がしのぎを削っていました。その中で何故、博多の代表として「一風堂」に声をかけたのか?

誘致をしたラー博創業者の岩岡洋志に聞いてみると、「もちろん当時勢いのあったお店も誘致候補としてお声がけもしていました。ただ一風堂を食べた時に、他の店舗と違い、マイルドで独特の臭みがない革新的な味に惹かれました」とのこと。

そして「当時河原さんにどうしてこういうラーメンを作ったのですか?と聞いたところ“俺は女性にも喜んでもらえる臭みのないポタージュのようなスープを作りたいんだ”と目を輝かせて語ってくれました」

ラー博オープン前、岩岡館長にスープの作り方を説明する河原さん(1993年撮影)

「そうした経緯の中で、一風堂にお声がけをさせていただくこととなりました」

「こんな場所にお客さんが来るわけがない!」

河原さん曰く「はじめて岩岡さんが来た時に、彼はお土産として“ひよ子”を持ってきたのです。“ひよ子”は九州の銘菓ですので、その辺で買ってきてうちに来たんだと思い、岩岡さんが帰った後、“あいつは詐欺師だ!”と思い、店の外に塩をまきました。ただ“東京ひよ子”という同じ会社の銘菓が東京にもあることを後に知りました(笑)」

出店のお声がけをしていたころの河原さん(1993年撮影)

「余談はさておき、その後も岩岡さんは何度も訪ねてきてくれました。ただ当時うちも、東京進出するような状態ではなかったですし、今のように物流も発達していなかったので、そんな大きな賭けに出るのはリスクが高いと思っていました。しかし何度も来てくれるので、その熱意や夢は熱いものを感じました。そのため、乗り気ではなかったですが、現場だけは見ようと新横浜を訪れました。結果的にこれが人生で一番の転機になりました」

河原さんが新横浜ラーメン博物館の建設現場を訪れたのは1993年の6月、河原さんが40歳のときでした。小雨の降る夕方、駅を降りて建設現場まで歩く中、空き地だらけで、人がほとんど歩いておらず、「こんな場所にお客さんが来るわけがない!すぐに断ろう」と瞬時に思ったそうです。

ラー博開業前の新横浜の風景

店舗予定地は約11坪、岩岡さんは「月商1000万は行くと思います」と言ったのですが、心の中で「馬鹿言ってんじゃないよ!こんな場所で1000万も売れるわけないだろう!」と呆れました。

建設現場を訪れた河原さん(1993年)

設立準備室で見た“まぶしい光景”

「現場の帰りに岩岡さんが“設立準備室に寄ってください”というので、しぶしぶ立ち寄ったのですが、その扉を開けた瞬間、断るはずだった意思をひっくり返される出来事があったのです」

設立準備室(1993年撮影)

「そこには僕が忘れていた熱気がみなぎっており、若いスタッフが夢に向かってイキイキとしている光景がありました。そこには6人くらいの若いスタッフがいて、ある者は電話をかけ、一方では声高に議論をしていて、壁には全国のラーメンの記事が貼られ、“オープンまで150日”、“勝ち抜くぞ!”といった大書した紙が貼られていました」

設立準備室で議論する創業メンバー(1993年撮影)

「みんな目がキラキラしていて、あの光景はあまりにもまぶしく、立地なんて関係ない、このスタッフたちと一緒に働きたいと思ったのです。もし準備室に立ち寄らなかったら今の一風堂はなかったのかもしれません」とのこと。こうして、河原さんは若いラー博のスタッフの熱意に賭け、出店を決断したのです。

1994年当時は博多に1店舗、39年後には15カ国279店舗と大躍進

現在15カ国279店舗(2023年9月現在)を構える一風堂グループですが、ラーメン博物館に出店した1994年は、一風堂としては博多の大名本店1店舗しかありませんでした。

「そうは言ってもそんなにお客さんが来るとは思っていませんでした。また、ラーメンを食べるのに入場料がかかるという点も、岩岡さんに何度も考え直してほしいと懇願しました」

そんな状況だったため、河原さんは一番弟子の中坪正勝さん(現「麺の坊 砦」店主)を連れて、現地でアルバイトを募集し、1週間くらいで福岡に帰るつもりだったようです。

一番弟子の中坪さんと河原さん(1994年のオープン前)

しかし、オープンすると想定をはるかに超えるお客さんが来ました。

オープン初日の賑わい

福岡に戻れたのは半年後

「僕のラーメンは当時27時間くらいかけてスープを取っていたので、あっという間にスープがなくなり、お店を一時休業して、閉館後もずっとスープを取り、またなくなったらまた店を一時休業するという日々がずっと続きました。だから僕はホテルには帰らず、ずっとラーメン博物館にいました。結局、福岡に帰れたのは半年後でした。まぁ忙しかったです」

94年開業前のポスター

当時のことをについて岩岡は「せっかく(オンライン・セキュリティシステムの)セコム(SECOM)に入ったのですが、ずっと河原さんがいたので、セコムをセットする必要がありませんでした(笑)。また当時は火曜日を定休日にする予定でしたが、河原さんから“なんで定休日なんて作るんだ!必要ない”と言われ、最初の火曜日は営業したのですが、河原さんから“岩岡ごめん、やっぱり定休日が必要だ”と言われ、翌週から火曜日を定休日にしました(笑)」

さまざまなメニューが登場する“一風堂クロニクル”

あの銘店をもう一度“94年組”の第6弾としてご出店いただく「一風堂1994」。“94年組”のコンセプトは1994年当時の味を再現するというもので、出店当時は一風堂の代名詞である“白丸”、“赤丸”が誕生する前の味を披露していただきます。

さらに今年39年目に突入した「一風堂」ですが、39年を「Thank you」ととらえ、これまでの感謝と共に一風堂の歴史の中でエポックメイキングとなったメニューを歴史と共に振り返る“一風堂クロニクル”というテーマを付加し、約3カ月の期間の中で様々なメニューが復活します。詳細スケジュールに関しては、SNS等で随時発信してまいります。

「一風堂」39年の歩み

簡単ですが、「一風堂」のこれまでの歴史を振り返ります。

◎1985年 10月16日
福岡市中央区大名に「博多 一風堂」創業

創業店外観

◎1994年3月6日
「新横浜ラーメン博物館」のオープニングメンバーとして出店

◎1996年7月
「白丸元味」「赤丸新味」を発売

1996年、初代白丸元味、赤丸新味を発売

◎1998年1月
テレビ東京「TV チャンピオンラーメン職人選手権」チャンピオンに輝く

TV チャンピオンラーメン職人選手権に出場した河原さん

◎1999年3月
テレビ東京「TV チャンピオンラーメン職人選手権」V2に輝く

◎2000年2月
テレビ東京「TV チャンピオンラーメン職人選手権」3連覇達成!殿堂入りを果たす

◎2000年4月
業界初の店名入りカップ麺「日清名店仕込みシリーズ」として「一風堂」を現「セブン&アイ・ホールディングス」で発売。現在も幾度となくリニューアルを重ね発売中

日清名店仕込みシリーズ

◎2002年6月
創作ラーメンを一日限定で提供する「四季のラーメン」を大名本店で開催

最初の創作ラーメン「誕生」(2002年6月26日)

◎2005年12月
TBS「史上最大のラーメン王座決定戦」初代「麺王」の座に就く

◎2008年3月
ニューヨークに1号店「IPPUDO NY」開店

IPPUDO NY1号店

◎2013年6月
全日空国際線機内食に一風堂監修のラーメンが採用

◎2014年1月
フランスで「PARIS RAMEN WEEK “Zuzutto”」を開催

「PARIS RAMEN WEEK “Zuzutto”」

◎2015年 10月16日
創業30周年を機に、「白丸元味」「赤丸新味」をリニューアル

◎2017年3月
東京証券取引所マザーズに株式を上場

◎2023年10月16日
「白丸元味」「赤丸新味」「からか麺」をリニューアル

「白丸元味」「赤丸新味」「からか麺」

◎2024年2月9日
あの銘店をもう一度“94年組”第6弾「一風堂1994」がラー博に復活

白丸・赤丸誕生前の“原点のラーメン”

今回の出店で、原点の味となる”白丸、赤丸が誕生する前のラーメン”が復活します。おそらく食べたことのない方がほとんどだと思われます。

白丸・赤丸誕生前の“原点のラーメン”

約3カ月の期間中、この”原点のラーメン”レギュラーメニューとして発売をし、一風堂の39年の歴史の中でエポックメイキングとなったメニューが、期間限定で発売されます。

どのようなメニューが登場するかは、後日SNS等で随時発表していきます。

原点の味は、100%豚頭のみを使用したクリーミーな豚骨スープ。

前日から下処理の工程を経て12時間かけて丹念に炊き上げ、臭みがなく、すっきりと飲みやすく、深い味わいになるよう仕込んでいます。

かえしには、豚骨のコクと旨みを最大限に引き立てるように、九州産の濃口醤油と薄口醤油を6種類厳選してブレンドし、伝統の博多らしい味わいを創ります。

“原点のラーメン”のスープ

麺に使用する小麦粉は、福岡県産の小麦「ミナミノカオリ」を100%使用。

昔懐かしい印象と、歯切れの良さに軽い食感とのどごしを表現した、小麦の香りを豊かに感じる特製の低加水細麺(番手:26番)です。

低加水細麺
“原点のラーメン”の麺

チャーシューは、豚肩ロースの表面を焼き、九州産の醤油でじっくり煮込んだ、伝統の焼豚チャーシュー。

醤油で味付けした木耳の食感、風味豊かな青ネギが豚骨スープをより引き立てます。

“原点のラーメン”のチャーシュー

前例のないコラボ企画も予定

今回の出店期間中、創業者である河原成美さんが新横浜に滞在します。

河原成美さん

さらに、期間中、これまでやったことのないコラボレーション企画も予定しておりますのでお楽しみに!

この企画だから食べられる、この企画でしか食べることの出来ない貴重なラーメンを是非この機会に是非お召し上がりください。

出店期間は2024年2月9日(金)~5月12日(日)。ワクワク・ドキドキの企画がいよいよ始動します。

『新横浜ラーメン博物館』の情報

住所:横浜市港北区新横浜2-14-21
交通:JR東海道新幹線・JR横浜線の新横浜駅から徒歩5分、横浜市営地下鉄の新横浜駅8番出口から徒歩1分
営業時間:平日11時~21時、土日祝10時半~21時
休館日:年末年始(12月31日、1月1日)
入場料:当日入場券大人380円、小・中・高校生・シニア(60歳以上)100円、小学生未満は無料
※障害者手帳をお持ちの方と、同数の付き添いの方は無料
入場フリーパス「6ヶ月パス」500円、「年間パス」800円

※協力:新横浜ラーメン博物館
https://www.raumen.co.jp/

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