バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第107回は、「ふたたび忘却について」。
日本陸軍の歴史を観続けてきた遺産の取り壊し計画
私生活における「忘却」については以前に書いた。ふと読み返してみたら、その余りのアホらしさ、余りの啓発力のなさに啞然とし、たとえは妙だが報復戦(リターン・マッチ)のつもりでふたたび「忘却」について書く。
先日、某社の剛腕編集者に突如拉致されて行方不明になる途中の中央線市ヶ谷駅付近で、車窓から見た風景の重大なる変容に気付いた。
自衛隊駐屯地、通称「市ヶ谷台」上に聳え立っていた旧陸軍省の建物が、ない。ブッ壊すかどうかもめているという話は知っていたが、私に何の断わりもなく、それはなくなっていた。
私はべつに自衛隊の大家(おおや)でも株主でもないのだからそんなことは大きなお世話なのだろうけれど、自衛隊のOBとしても小説家としても日本国民としても、苦言を呈する資格はあると思う。
私は青春の2年間を市ヶ谷台上に過ごした。所属した第三十二普通科連隊は、昔で言うなら近衛歩兵連隊に相当する精強部隊である。
件(くだん)の建物は「一号館」と呼ばれ、私たちは朝夕欠かさず、その屋上に掲揚降下される日章旗に敬礼をした。
ラッパが吹鳴されると駐屯地内にいる隊員はすべての動作を停止して一号館の方向に正対する。銃を持っている者は捧げ銃(ささげつつ)をし、手ぶらの者は挙手の礼をし、帽子を冠っていない者は腰を45度に折る最敬礼をする。
わずか数十秒の間、駐屯地の動きは止まり、厳粛な、敬虔な空気に包まれる。
1日の課業のうち、私はその瞬間が1番好きだった。国旗がことさら意味のある物だとは思わない。国家の象徴であるという認識もない。しかし、朝日を受け、夕日に輝く一号館の雄々しい姿は感動的であった。
それがかつて陸軍士官学校本館として建てられ、戦時には陸軍省となり、大本営が設置され、そして極東軍事裁判の法廷となった事実を、私たちは良く知っていた。肝に銘じていた、というべきであろう。
私はたいそう理屈っぽい兵隊であったが、物言わぬ一号館に対してだけは、ほとんど無条件に、最大の敬意を払うことができた。真の象徴とはそういうものであろうと今も思う。
また数年前、私はこの建物を物語の基点とした「日輪の遺産」という長編小説を書いた。例によってちっとも売れなかったが、ひそかに誇りとする作品である。
執筆に際してはこの建物について多くの資料を求め、時代別の平面図を作成し、かつ旧知を頼って見学もした。一号館は新たな存在の意義を私に知らしめた。
いささか手前味噌ではあるが、同著第3章の一部を抜粋する。
真夏の庭から歩みこんだ建物の中は、ひんやりとした闇であった。
三階建ての広大な本館は、東半分が参謀本部と教育総監部、西側の半分が陸軍省に使い分けられている。帝国陸軍の頭脳はここに集約されていた。
廊下にも階段にも、人影はまばらであった。真柴が勤務していたころの活気はどこにもなかった。(中略)
最後の戦の準備をおえて、指揮中枢の大本営は事実上その存在意義を失おうとしていた。(中略)
「ここは、初めてか?」
と、真柴は大理石の階段を登りながら、小泉中尉に訊ねた。
「はあ」、と気の抜けた返事をして、中尉は物珍しげに周囲を見渡した。世界中を相手に戦をしている軍隊の、最高指揮所に立ち入った緊張が、軍人になりきらぬ表情をこわばらせている。
二階に上がると、大臣室の前の太柱に寄りそうようにして、近衛師団長が立っていた。
―-今、自分の稚拙な文章を書き写し、感慨あらたなものがある。はからずもこの一節は、一号館の現場取材をした最後の小説的描写となった。