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わが国にだけ存在しない「無名戦士の墓」

ところで、こうした個人的思い入れはさておき、私は一人の日本国民として苦言を申し上げたい。

旧陸軍省本館は、世界に類を見ない重大な歴史的建造物であった。それは軍事力という愚かしい力とともに興隆し、潰(つい)え去ったひとつの国家の完全な墓標であった。

そうした意味で、旧陸軍省と広島の原爆ドームとは誠に好一対の遺産たりえたと思う。

これを健常な形のまま永久に保存し、「戦争記念博物館」もしくは「平和祈念館」とする方法を、関係者は誰も考えなかったのであろうか。

回廊で囲まれた地上3階地下1階の東半分に、戦争という不条理のために命を落とした人々の遺品と遺書を展示し、西半分には誠実公平に(つまりスミソニアン博物館のような不誠実不公平な方法では決してなく)、過ぎし戦のありようを開示する。

東京裁判の舞台となった講堂には、勝者が敗者を裁いたばかばかしい法廷のジオラマを再現するも良し、それが公平さを欠くというのであれば、世界中から集めた戦争のフィルムを毎日上映すれば良い。

食堂には雑炊やら高粱(コーリャン)飯やら、軍隊の営内食や野戦食を忠実に再現して、見学者たちに提供したらどうであったろう。

いっそのこと市ヶ谷台上の全自衛隊を世界都市博の跡地にでも移駐させて、地域のすべてを平和公園にしてしまえば良かったと思う。それこそが「伝統の市ヶ谷台」に最もふさわしい継承方法にちがいない。

つねづね不思議に思っていたことであるが、世界中どこの国に行ってもある「無名戦士の墓」が、有史以来最悪の戦禍を蒙(こうむ)ったわが国にだけないのはなぜであろう。

靖国神社というものはある。そのすぐそばに何だか対抗するような感じで、千鳥ヶ淵の戦没者慰霊碑も立っている。だが、他国の無名戦士の墓のように、それらがわれわれ子孫を生かすために死んで行った、尊い父祖の霊場であるという認識を、今や多くの人々は持たない。

私は戦争を知らない世代であるが、職業柄さまざまの戦史を繙(ひもと)く。全ての戦は愚行である。しかし戦で死んだ兵士たちや、犠牲となった人々が歴史の中に忘却されて良いものだとはどうしても思えない。したがって、戦を忘却してはならないと思う。

大本営から発表されたいまわしい戦時用語のうち、唯一われわれが嗤ってはならないもの―-それは「英霊」という言葉である。

かつてフィリピンでは約46万6000の投入兵力中、36万8700の兵が死んだ。東部ニューギニアでは14万人中、11万人が、ビルマでは23万人中の16万人が、またほとんどの戦史には書かれることもないジャワ東方の小スンダ列島では、6万9100人の総員のうち、5万1600人が飢餓と熱病のために死んだ。

第二次大戦における我が国の戦死者総数は陸軍の正規兵だけでも148万2300名といわれるが、もちろん正確な数字ではあるまい。ともかく途方もない数の兵士が、われわれの今日かくある繁栄のために死んだのである。彼らは英霊である。

この点に関しては誰が何と言おうと、私は彼らの名誉にかけて、また彼らの末裔(まつえい)たる私自身の名誉にかけて、私は彼らを英霊と呼ぶ。

なぜあの建物を、さしたる議論もなくぶち壊してしまったのだろう。なぜ博物館にしようとはせず、国民が等しく頭(こうべ)を垂れる祈念の場を、あそこに造ろうとしなかったのだろう。

たとえば世界都市博のプロジェクトと予算とをもってすれば、戦後50年に最もふさわしいこの事業はおそらく達成できたはずである。新都知事もまさか反対はするまいし、それは永遠に、誇り高い不戦憲法を持ったこの国を守護したであろう。

うち続く戦後処理問題。埒のあかぬ対米経済摩擦。そして内には改憲の論議、オウムの蛮行―-こうした涯(はて)しのない社会問題のひとつひとつが、戦と英霊とを故意に忘却してしまった当然の結果だと、私には思えてならない。われわれには国家の尊厳を確認する足場(スタンス)がない。

あの建物の記憶といえばもうひとつ、バルコニーで挙兵を呼びかけた小説家のことを思い出す。しかしあの事件に限っては、建物にまつわる歴史だとは思いたくない。

理屈はともかく、小説家は書斎で死ぬものだ。

(編集部注:市ヶ谷一号館は、当時、旧防衛庁によって取り壊しが決定しており、既に解体工事が始まっていたが、保存を求める市民運動によって、一部が駐屯地内に移築され、市ヶ谷記念館として保存された)

(初出/週刊現代1995年7月22日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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