松平定知の「一城一話55の物語」

戦国武将・津軽為信が息子に説いた教え 最北の現存天守「弘前城」

弘前城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ…

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

桜が美しい弘前城、現存12天守のうち東北で唯一

桜が美しいことで知られる弘前城は現存12天守のうち、日本列島で最も北にあり東北で唯一のものです。この天守は文化7(1810)年に再建されたものです。寛永4(1627)年に落雷で焼失して以来、天守再建は弘前藩の願いでしたが、幕府の目を気にして櫓を改築するという名目で建てられました。

弘前城 hallucion_7@Adobe Stock

南部と津軽は犬猿の仲

ところで、南部と津軽は犬猿の仲といわれます。よく理由として挙げられるのが、戊辰戦争の際の遺恨です。津軽藩も南部藩も奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍に抵抗しましたが、津軽藩はいち早く恭順し、南部藩に攻め入るといったことがありました。野辺地戦争と呼ばれる事件ですが、南部藩を懲罰する意味もあって南部地方の北部は切り離され文化も言葉も違う津軽と合併させられ、青森県になったのです。そのことを八戸あたりの旧南部領だった人たちは、面白くないと思う感情があったというのです。

でもその犬猿の仲の原因はそれより遙か昔にありました。原因を作ったのは、津軽藩10万石の初代藩主・津軽為信です。もともと津軽地方は、南部氏が治めていました。ところが、南部氏の一族、大浦氏の5代目にあたる為信が、元亀2(1571)年に、突如南部氏の津軽の拠点である石川城を襲撃します。城主であり、南部氏24代当主晴政の叔父である南部高信を自刃させ、その後も南部系の豪族を次々に討ち取っていきます。南部からすれば、裏切りで、遺恨が残るのも無理はありません。

弘前城の背後に岩木山が見える 温子 河口@Adobe Stock

大浦為信が津軽統一

実は「三日月の丸くなるまで南部領」といわれるほど、領土を拡大した南部晴政でしたが、従兄弟の信直を養子としたあとに実子が生まれ、信直が疎ましくなりました。こうした内部対立で、南部藩が弱体化していたことは確かです。大浦(津軽)為信は津軽で勢力を伸ばし続け、ついに津軽統一を果たすのです。

弘前城 kiyo@Adobe Stock

本能寺の変をいち早く察知、豊臣政権への工作

南部氏との争いが続くなか、中央では政変が起きます。天正10(1582)年、天下取りに突き進んでいた織田信長が本能寺の変で倒れ、秀吉が天下人になっていきます。為信はこの情報をいち早くキャッチし、豊臣政権への工作を開始します。

為信憎しの南部藩は為信が秀吉が大名間の私闘を禁じた惣無事令に反したと訴えますが、為信は石田三成を頼り、名馬と鷹を秀吉に献上し、とりなしに成功します。さらに南部藩に先駆け小田原征伐に向かう秀吉に拝謁し、自らも参加するなど、労苦を惜しみませんでした。

秀吉から津軽の領有を正式に認められた

いっぽうで、為信は五摂家筆頭の近衛家に近づき、財政支援を行うことで近衛前久(このえさきひさ)の猶子(親子関係を結ぶこと)となり、同じく前久の猶子となり関白となった秀吉とは義兄弟というかたちになりました。こうした努力が実り、秀吉から津軽の領有を正式に認められ、名も津軽為信に改めます。

弘前市の街並み UMI@Adobe Stock

三成への御を忘れず

戦いに強く政治センスもあった為信ですが、例えば「関ヶ原」に際してこんな話もあります。この合戦では、自らは東軍につきますが、嫡男・信健(のぶたけ)は秀頼の小姓として大坂城にありました。西軍敗戦の後、息子の信健は石田三成次男の重成と、秀吉正室、北政所の養女になっていた三女・辰姫を連れ出し、この辰姫を後に2代藩主となる三男・信枚(のぶひら)の妻にしました。先述の“惣無事令違反”の時に三成にとりなしてもらった恩を忘れなかったのです。

戦乱のなかで息子にこうした教えを説いた津軽為信という男は、なかなか味のある戦国武将といえるのではないでしょうか。

弘前城のある弘前公園 Farnorth@Adobe Stock

【弘前城】(別名・鷹岡城)
津軽(弘前)藩初代藩主・津軽為信が計画し、息子の信枚(のぶひら)が慶長16(1611)年に完成した平山城。東西約500m、南北約1000mという広大な敷地を持つ。築城当時の天守は五層だったが、落雷で焼失。現在の天守は文化8(1811)年に再建されたもの。現存12天守のひとつ。春は2600本のソメイヨシノが咲き、桜の名所としても知られる。
料金:弘前城本丸・北の郭、大人320円、子供100円
住所:青森県弘前市下白銀町1
電話:0172-33-8739(弘前市役所公園緑地課)

【津軽為信】
つがる・ためのぶ。1550~1607年。津軽(弘前)藩10万石の初代藩主。天文19(1550)年、南部氏の一族だった大浦守信の嫡男に生まれる。22歳の時に南部氏の津軽支配の拠点だった石川城(弘前市石川)を突如攻め、城主の南部高信(南部信直の父)を討ち取った。その後も南部氏の領土を切り取り、天正16(1588)年、津軽地方を統一。豊臣秀吉から御墨付きをもらうことで独立を果たした。関ヶ原の戦いでは東軍につく一方、嫡男信健は西軍につき、結果として血脈を明治まで残すことに成功した。

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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