松平定知の「一城一話55の物語」

岡山城築城400年と八丈島、豪姫との再会は叶わなかった 宇喜多秀家の人生を狂わせた「関ヶ原の戦い」

岡山城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

画像ギャラリー

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

宇喜多直家の次男として出生

関ヶ原の戦いは、負けた西軍の武将の人生を大きく狂わせました。なかでもこの宇喜多秀家ほど、数奇な運命をたどった人物はいないでしょう。宇喜多秀家は宇喜多直家の次男として生まれます。

この秀家の父、直家は主君を追放し、ライバルを暗殺するなど謀略を繰り返し、備前、備中、美作の三国を支配するようになります。直家は、毛利と織田の関係が悪化すると、当初、毛利に味方しますが、織田に勢いがあると見るや織田方に寝返ります。こういう生き方から彼を梟雄という人もいます。この直家は天正9(1581)年、病で急死。9歳の秀家が家督を継ぐことになります。

岡山城 Photo by Adobe Stock

秀吉と“親子関係”に

実は、直家は毛利攻めの司令官だった羽柴秀吉に、息子・秀家の将来を託しています。それゆえに秀吉は秀家を猶子(ゆうし)とします。猶子とは家督や相続と関係のない親子関係のことで、子どものなかった秀吉は秀家をたいそうかわいがりました。そして、親友の前田利家の娘で、自分の養女にしていた豪姫を、秀家のもとに嫁がせることにします。

良き伴侶を得た秀家は、秀吉の天下統一のため大いに働き、秀吉が亡くなる直前には五大老に抜擢されます。その頃に完成したのが岡山城で、金箔瓦を頂く五重六階の豪壮な天守は、57万4000石の太守にふさわしいものでした。

岡山後楽園の向こうに岡山城が見える Photo by Adobe Stock

薩摩の島津に落ち延びたが…

ここまでは順風満帆、絵に描いたような出世物語でした。

秀家の人生を狂わせたのが関ヶ原の戦いです。正義感の強い秀家は、石田三成の「秀頼様のために徳川家康を倒す」という言葉を聞き、西軍につきました。しかし、小早川秀秋の裏切りもあって西軍は敗北。血気にはやる秀家は、秀秋の裏切りを見て激怒し、刺し違えるべく単騎斬り込もうとしたという逸話が残っています。が、家来に諌められて伊吹山中に身を潜め、薩摩の島津のもとに落ち延びて僧となりました。

その後島津にも幕府の追及がおよび、慶長8(1603)年、ついに秀家の身柄は幕府に引き渡されました。当然、死罪も考えられましたが、豪姫の実家である前田家と島津家の嘆願で、八丈島への流罪と決まります。こうして慶長11(1606)年、秀家と息子2人、そして家臣10名が、当時は絶海の孤島・八丈島に送られたのでした。豪姫も一緒に行くことを願いましたが、これは許されません。八丈島は江戸時代、流刑地となり多くの罪人が流されましたが、秀家たちはその第一号でした。

岡山城の廊下門(ろうかもん) Photo by Adobe Stock

「広島の酒を所望したい」と申し出た老人

夫を思う豪姫と前田家では、幕府の許しを得て1年おきに白米と金子、医薬品などを送った記録が残っていますが、それでも八丈島での生活は苦しいものだったのでしょう。こんな話が残っています。

安芸広島49万石の領主・福島正則は、江戸にいる際、広島から船で酒を運ばせていました。ある時その船が嵐に遭い、八丈島に漂着しました。するとそこに老人が現れ、「福島殿の船とお見受けするが、広島の酒を所望したい」と申し出た、その老人が秀家だったとか。

八丈島 Photo by Adobe Stock

半世紀も八丈島で暮らす

豪姫は寛永11(1634)年秀家や息子との再会を果たすこともなく、金沢城で亡くなります。秀家が天寿を全うするのは明暦元(1655)年ですから、実に50年近い歳月を八丈島で過ごしたことになります。享年83でした。

豪姫との再会がかなわなかった秀家ですが、平成9(1999)年、岡山城築城400年を記念し、八丈島に二人のひな人形のような像が建てられました。二人にとってほぼ“400年ぶりの再会”でした。

岡山城の夜景 Photo by Adobe Stock

【岡山城】(別名・烏城[うじょう])
慶長2(1597)年、豊臣政権の中枢を担っていた宇喜多秀家が当地にあった石山城を8年かけて大改修し、完成させた。金箔瓦を使用した五重六階の天守を持ち、天守の外壁には黒の下見板が使われたことから「烏城」の別名を持った。戦前は国宝だったが、空襲で焼失。昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。城主の権威を示す書院造りの居間があり、初期の天守閣の特徴を伝えている。
開館時間:9時~17時30分
岡山城天守閣入場料:大人400円、小・中学生100円(岡山後楽園との共通入城券720円、岡山後楽園・林原美術館との共通入城券1120円、岡山後楽園・夢二郷土美術館との共通入場券1360円)
住所:岡山市北区丸の内2ー3ー1
電話:086ー225ー2096

岡山城 Photo by Adobe Stock

【宇喜多秀家】
うきた・ひでいえ。1572~1655年。謀略によって勢力を拡大した宇喜多直家の次男として生まれ、父の死去により9歳で家督を継ぐ。毛利征伐に来た羽柴秀吉に気に入られ、猶子(家督や相続にとらわれない親子関係)となる。秀吉の天下統一に貢献し備前、美作など57万4000石の大大名となる。前田利家の娘・豪姫を正室とし、五大老のひとりとなるなど、隆盛を極めたが、関ヶ原の戦いで奮戦空しく壊滅。前田家や島津家の嘆願もあって助命、八丈島に流され84歳まで生きた。

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

画像ギャラリー

この記事のライター

関連記事

「黙殺」に激怒した秀吉、伊達政宗が取った行動は 「遅れてきた天下人」の仙台城での“非情過ぎる”生涯

「尾張憎し」の執念が御三卿を作らせたのか 御三家から初の将軍徳川吉宗の治世と和歌山城

“城”を築かなかった武田信玄、「躑躅ヶ崎館」を本拠とした意味は?「情報こそが勝利の近道」戦国最強の武田軍団はこうして作られた

尚泰王はどんな思いでペリーを見たのか 首里城の復元を願い、沖縄の複雑な問題と歴史を考える 

おすすめ記事

【11月22日】今日は何の日? 辛い!おいしい!美容にうれしい!

ビッグなソーセージをがぶり!【厳選】シャルキュトリーが自慢のビストロ4軒 

名古屋のコーヒーは量が多い!?コーヒー好き女優・美山加恋がモーニングでその真相を知る

肉厚!もつ煮込みがうまい 創業70年の老舗『富久晴』はスープも主役「ぜひ飲み干して」

東京、高田馬場でみつけた「究極のラーメン」ベスト3店…鶏油、スープ濃厚の「絶品の一杯」を覆面調査

禁断の2尾重ね!「うな重マウンテン」 武蔵小山『うなぎ亭 智』は 身がパリッと中はふっくら関西風

最新刊

「おとなの週末」2024年12月号は11月15日発売!大特集は「町中華」

全店実食調査でお届けするグルメ情報誌「おとなの週末」。11月15日発売の12月号は「町中華」を大特集…