松平定知の「一城一話55の物語」

関ヶ原の合戦はなかった?もしも上杉・佐竹連合軍ができていたら 久保田城で悲運の佐竹義宣は何を思ったか

久保田城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、久保田城(秋田)です。

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、秋田の久保田城です。

佐竹氏は源氏の嫡流

関ヶ原の戦いは多くの武将の運命を変えましたが、今回紹介する佐竹義宣もそのひとりです。佐竹氏は源氏の嫡流にあたり、18代目の父・佐竹義重は戦上手で常陸国(茨城県)をほぼ手中にするほど勢力を伸ばします。

父の隠居に伴い家督を継いだのが義宣です。当時の北関東は北から伊達氏、南から北条氏が迫っていました。生き残りをかけ佐竹氏は近隣の結城氏や宇都宮氏と同盟し、豊臣秀吉に近づき、石田三成や上杉景勝とも親交を結んでいきます。

そして、天正18(1590)年小田原征伐の際には、いち早く参陣したことで、常陸国に加え、下野国(栃木県)の一部あわせて54万石を与えられます。これは400あまりの全国の諸大名のうち、第8位の石高でした。義宣26歳の時です。

久保田城御隅櫓を眺める Photo by Adobe Stock

石田三成を救出、警護

慶長3(1598)年、秀吉が亡くなり、翌年前田利家も死去すると、豊臣政権内での武断派と文治派の対立が激しくなります。そして武断派の加藤清正や福島正則ら7人の武将が石田三成を襲撃しようとする事件が起こります。

いち早くこの情報をキャッチし、三成を救出して徳川家康のいる伏見城へと警護したのが義宣です。義宣は伊達政宗との対立の際、三成を通じて秀吉に助けを求めたことがあり、三成に恩義を感じていたのです。

仲裁に乗り出した家康は三成に五奉行からの引退を承諾させ、さらに三成を挑発するかのような専横な振る舞いをし始めます。三成がそんな家康に我慢ならないと立ち上がったのが関ヶ原の戦いです。

久保田城御隅櫓からの眺め Photo by Adobe Stock

領国没収を言い渡されたが、秋田へ国替え「秋田美人」にまつわる俗説

関ヶ原の戦いの発端は会津征伐と見るムキもあります。上杉景勝の軍事力増強への動きに憤った家康が上杉打倒に立ち上がったのが会津征伐ですが、これは三成を挑発するための家康の高等戦術だったと私は思います。義宣は上杉景勝の味方になり、兵を出したかったのですが、父義重の制止で態度をはっきりさせず中立の立場をとります。

そうこうしている間に西の関ヶ原の戦いで三成方は敗北。家康に味方しなかった義宣は謀反人三成と共謀していたとされ、領国没収を言い渡されます。しかし、父である義重が伏見城の家康を訪ね、必死に家名存続を嘆願したおかげで20万石と大幅な減封となりながら、出羽国(秋田県)への国替えを命じられ、佐竹氏は存続することになりました。

この際に美人を根こそぎ常陸から出羽へ連れて行ったことが秋田美人を生んだという俗説がありますが、茨城の方たちにはずいぶんと失礼な話です。

久保田城表門 Photo by Adobe Stock

秋田に武家文化が根付いた

歴史にifは禁物ですが、もし佐竹氏が西軍につき、上杉・佐竹連合軍ができていたなら、関ヶ原の合戦はなく、栃木県の大田原か那須あたりで、数カ月にわたる大合戦が行われたかもしれません。常陸から出羽へ移る際、義宣の胸にどんな想いが去来したか、想像するほかありませんが、勇名を馳せた佐竹の名において「一戦まみえたかった」というのが正直な気持ちだったのではないでしょうか。

久保田城跡(千秋公園)の庭園 Photo by Adobe Stock

さて、国替えと減封は佐竹氏にとっては悲劇でしたが、名門佐竹氏が来たことで、秋田の地は武家文化が根付き、角館など美しい町並みを残してくれることになったのです。

久保田城御隅櫓 Photo by Adobe Stock

【久保田城】
関ヶ原の戦いの後、転封となった佐竹義宣が慶長9(1604)年に築城。徳川家に気を遣って天守がないほか、佐竹氏が土塁普請に長けたことから石垣もないのが特徴。秋田市制100年の際に作られた御隅櫓(おすみやぐら)は三重四階だが、本来は二重櫓である。
御隅櫓観覧料:一般150円(※高校生以下は無料)
開館時間:9時~16時30分(※市立小中学校の夏季休業日は、午前9時から午後7時まで)
休館日:12月1日から翌年の3月31日まで
住所:秋田市千秋(せんしゅう)公園1ー39
電話:018-863-0770(佐竹資料館)
本丸表門
本丸にある正門は木造2階建てで、平成13(2001)年に復元されたものだ。佐竹義宣が生まれた。
太田城跡
現在の茨城県常陸太田市にあった太田城は佐竹城、舞鶴城とも呼ばれ、関東七名城に数えられた。

久保田城跡(千秋公園)に建つ佐竹義堯(よしたか)の銅像。佐竹義堯(文政8=1825=年~明治17=1884=年)は、第12代秋田藩主。幕末から明治維新を生きた最後の藩主 Photo by Adobe Stock

【佐竹義宣】
さたけ・よしのぶ。1570~1633年。清和源氏・新羅三郎義光を祖とする関東の名門佐竹氏の第19代当主。北に伊達氏、南に北条氏と強力なライバルがあるなか、豊臣秀吉に臣従し、常陸国と下野国の一部約54万石を領土とした。しかし、関ヶ原の戦いで自身が西軍につこうとしたところ父・佐竹義重の反対もあって自重。いずれにせよ徳川に味方しなかったために、家康から久保田(秋田)20万石への転封を命じられた。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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