松平定知の「一城一話55の物語」

家康の約束違反が明治維新に繋がったか 120万石から37万石に大減封、萩城に移った毛利輝元は何を思ったか

萩城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、毛利輝元と萩城です。

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、毛利輝元と萩城です。

東軍の大将は徳川家康、西軍の大将が毛利輝元

関ヶ原の合戦の東軍の大将は徳川家康ですが、西軍の大将は、今回ご紹介する毛利輝元でした。彼自身は戦いに出陣することもないまま、西軍敗戦の責めを負い、120万石から37万石への大減封となりました。

明治維新の際、長州藩が先頭に立って徳川幕府を倒しに出たエネルギーはどこから生まれたかといえば、それは関ヶ原の合戦とその後の毛利輝元の処遇にあったといってもいいのかもしれません。

萩城跡指月公園 Photo by Adobe Stock

「三本の矢の教え」は史実ではない

毛利輝元は毛利元就の孫にあたります。父隆元の急死により11歳で家督を継ぎ、叔父である吉川元春と小早川隆景に支えられながら、尼子勝久や大友宗麟らと戦い、勢力を拡大していきました。

ちなみに、元就が臨終の席で3人の息子たちに結束を呼びかけたという、有名な「三矢の訓(さんやのおしえ)」は、隆元が元就よりも先に亡くなっていることから、あれは後世の作り話、実際にあった話ではありません。

萩城跡指月公園 Photo by Adobe Stock

最大のピンチは織田信長との対立

さて、毛利家の最大のピンチは、石山本願寺をめぐっての織田信長との対立でした。天正5(1577)年以降は、羽柴秀吉を中心とした軍勢が輝元の勢力圏に攻め入ります。足かけ6年に及ぶ信長の攻勢に、毛利は窮地に追い込まれました。ところが、本能寺の変で信長が横死したことで事態は一変。毛利は秀吉政権とは宥和の道を選択し、最終的に輝元は五大老のひとりとなりました。

その後秀吉が亡くなると、石田三成を中心にした勢力と徳川家康との間で、天下分け目の関ヶ原合戦が起こります。

輝元は当初、家康に従い会津討伐軍に参加しようとしますが、毛利家の外交僧だった安国寺恵瓊の説得により、西軍の総大将に祭り上げられてしまいました。とはいうものの、輝元にも山っ気がなかったとはいえないでしょう。

萩城跡指月公園 Photo by Adobe Stock

石田三成からの催促に“動かず”

輝元は大軍を率いて、豊臣秀頼のいる大坂城に入城します。石田三成から再三にわたり「秀頼様を擁してご出馬願いたい」との催促がありましたが、結局輝元は動きませんでした。しかも関ヶ原で西軍の敗戦が決まるや、立花宗茂らの大坂城籠城策にも耳を貸さず、広島に退却してしまいます。

実は重臣・吉川広家が、家康の勝利を信じ、内通していたのは、みなさんご存じのとおりです。毛利の本体に陣取った吉川軍は、合戦が始まっても動こうとせず、その後方に陣を敷いた毛利軍が動けなかったことで、東軍に圧倒的に有利な状況が生まれたのです。小早川秀秋の裏切り以上に、毛利軍が戦わなかったことが、西軍の敗北を生んだのでした。

毛利家が生き残るには…吉川広家が家康に嘆願

西軍が勝てば、豊臣政権ナンバーワン、負けても家康とは事前に「動かなければ責任なし」との口約束があったので、日和見を決め込んでいた輝元でしたが、戦いのあと家康は、そんな約束などしていないと毛利家の改易を決定。代わって吉川広家に周防と長門37万石が与えられる手はずでした。

青ざめた広家が、その領地を本家の輝元に与えるよう家康に嘆願した結果、なんとか毛利は生き残ります。広島城を引き渡し、萩に移ることになった輝元の胸中は、いかほどのものだったでしょう。

萩城跡指月公園 Photo by Adobe Stock

「まだまだ時期尚早じゃ」長州藩の恨みのエネルギー

家康の約束違反を毛利家の当主は代々忘れず、正月の儀式の際、家臣が「殿、関東征伐はいかが?」と尋ね、殿様が「まだまだ時期尚早じゃ」と答えるのが常だったとか。

そのたまりにたまった長州藩の恨みのエネルギーが、明治維新を起こす原動力になったともいえます。

萩城跡指月公園 Photo by Adobe Stock

【萩城】(別名・指月城[しづきじょう])
慶長9(1604)年、関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、中国8カ国120万石から、周防、長門2カ国37万石へと大減封となった。それに伴い広島城から日本海に突き出た指月山(しづきやま)143mの麓に築城したのが萩城だ。現在は天守台や石垣しかないが、天守台の石垣の反りは日本一美しいという人がいるほど。現在は萩城跡指月公園として整備されている。
開園時間:8時~18時30分(4~10月)、8時30分~16時30分(11~2月)、8時30分~18時(3月)
料金:大人220円、小人100円
住所:山口県萩市堀内1ー1
電話:0838ー25ー1750(萩市観光協会)

萩城跡指月公園 Photo by Adobe Stock

【毛利輝元】
もうり・てるもと。1553~1625年。毛利家当主、毛利隆元の嫡男として生まれ、父の急死を受けてわずか11歳で家督を継ぐ。叔父の小早川隆景や吉川元春に支えられ、織田信長と戦った。信長亡きあとは秀吉に近づき、五大老となる。関ヶ原の戦いでは西軍の大将に祭り上げられ、大坂城に入るも一度も戦うことなく退いた。秀頼を擁して対峙すれば、勝敗の行方は変わっていたかもしれない。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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