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疎遠になっていた店主に、麺作りを改めて乞う

「ラーメン屋になるとはまったく思っていなかったし、考えたこともバイク事故に遭うまではなかった」と話す鴨志田さん。生死の境をさまようような事故に遭ったことより、結果的に情熱を注ぐことができるラーメン店という生涯の仕事を見つけた。

味噌ラーメンの名店である『麺処 くるり』に入った時、店主から「独立したいなら、いろいろな店を経験したほうが良い」とアドバイスをもらったという。そこで次に入店したのが、『ラハメン ヤマン』(東京都練馬区)だ。

『ヤマン』の門を叩いたのは、自家製麺であったこと、すべての味のラーメンが揃っていたことが理由だった。約2年間、勤めた。辞めたあと、店主の町田好幸さんとは「一時は考え方の違いにより、3年ほど疎遠だった」というが、『アイリー』を開くにあたって、町田さんに麺の作り方を改めて教わりたいと願い出たところ、快諾された。「ヤマンの麺が世界一美味い」が理由だ。

『ヤマン』の店主・町田好幸さん

店名の「アイリー」は、ジャマイカの方言であるパトワ語で「幸せ」や「楽しい」を意味する。ジャマイカの言葉を店名に使った理由は、「レゲエを愛し、ジャマイカ文化に造詣の深い『ヤマン』へのリスペクトから」という。

「経営者のつもりで店に立て」、25歳で「初店長」

その後入ったのは、当時から行列店として名を馳せていた『カラシビ味噌らー麺 鬼金棒(きかんぼう)』(東京都千代田区)だ。

『鬼金棒』では初めて店長を任された。代表の三浦正和さんの「経営者のつもりで店に立て」という教えに、責任感を持つことの大切さを学んだという。

『鬼金棒』時代の鴨志田さん

米サンフランシスコでラーメン作りを経験

さらに鴨志田さんの視野を広げたのが、2010年頃に入った『MENSHO』(東京都文京区)だ。同店に惹かれたのは、世界にラーメンを広げているトップランナーだったから。

「『MENSHO』時代はアメリカ・サンフランシスコで1カ月、ラーメンを作る経験をさせていただきました。お客様がいきなり厨房に入ってこられて、ニューヨークから食べに来たんだ!感動した!とハグされたんです。やはり日本のラーメンは世界一で、誇りを持って取り組める仕事だと実感しました」

アメリカでのラーメン作りは大きな刺激になった
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父の突然の死が背中を押した...
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市村 幸妙
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