幕末の三舟
さらに慶喜は、護衛の幕臣・高橋泥舟(たかはし でいしゅう)の義弟、山岡鉄舟(鉄太郎)を、駿府まで進撃していた大総督府に向かわせることにしました。山岡はまず、幕府側の総責任者である勝海舟のもとを訪ねます。これが時局を動かすことになるのです。この三人を「(幕末の)三舟」といいます。
山岡鉄舟は勝海舟とは初対面でしたが、勝はその人物を見込んで書状をしたためるとともに、前年の薩摩藩焼き討ち事件で捕らわれて勝に保護されていた薩摩藩士の益満休之助を護衛に付けたのでした。
江戸城総攻撃回避のための7カ条
西郷は江戸城総攻撃を3月15日と決定していましたが、旧知の勝海舟の使者とあっては会わないわけにもいかず、面会を許します。西郷もまた山岡の人柄に惚れ込んでしまい、交渉に応じるかたちで、江戸城総攻撃回避のための7カ条を提示します。
この7カ条は、江戸城を明け渡すことや、軍艦および武器を引き渡すことなどが柱になっていましたが、幕府側が受け入れがたい厳しい条文が第一条にありました。それは、慶喜の身柄を備前岡山藩に預けるというものでした。備前岡山藩は新政府軍の支配下にあり、お預けは事実上慶喜の切腹を意味するものだったのです。
西郷に圧力をかけた人物とは…
山岡は西郷に「島津の殿様を他藩に預けろといわれたら承知するか」と激しく反論し、結局西郷は第一条の保留に応じました。これを受け、山岡は急ぎ江戸に戻ります。山岡の帰途の安全は西郷が保証しました。その日は3月13日。総攻撃のわずか2日前でした。
勝はここで強烈な手を打ちます。新政府軍に対して、江戸焦土作戦をちらつかせたのです。いわば江戸を人質に取ったのです。
江戸を焦土にすることは、新政府側について貿易の拡大を狙っていたイギリスにとって、最も困ることだと勝は見抜いていました。
勝の思惑どおり、居留民の安全確保を考える英国公使パークスは、総攻撃に反対。恭順、謹慎する慶喜を切腹させることは万国公法に反すると、西郷に圧力をかけたのです。このことが、江戸無血開城を実現した一番のポイントだと思います。