65年前の昭和34年2月23日、天皇陛下はお生まれになった。将来天皇になられる皇子の誕生であった。美智子さまのご懐妊が宮内庁から発表されたのは、ご成婚から5カ月後の9月15日であった。ご成婚で盛り上がった国民は、ふたたび明るいニュースに沸き立った。しかし、健やかな皇子のご誕生をなによりも喜ばれたのは、皇太子明仁殿下(今の上皇陛下)と美智子さまであった。今回は、元気な皇子誕生の物語である。
画像ギャラリー65年前の昭和35年2月23日、天皇陛下はお生まれになった。将来天皇になられる皇子の誕生である。美智子さまのご懐妊が宮内庁から発表されたのは、ご成婚から5カ月後の9月15日であった。ご成婚で盛り上がった国民は、ふたたび明るいニュースに沸き立った。しかし、健やかな皇子のご誕生をなによりも喜ばれたのは、皇太子明仁殿下(今の上皇陛下)と美智子さまであった。今回は、元気な皇子誕生の物語である。
ご結婚早々のご懐妊に
「ご懐妊3カ月でご経過もご順調、ご出産予定日は昭和35年3月2日」
9月15日、美智子さまのご懐妊が宮内庁から発表された。ご成婚(4月10日)早々にご懐妊されたのである。美智子さまはまことに強運の妃殿下であった。
美智子さまご懐妊の発表があってから、天皇家では出産のご準備に余念がなかった。皇太子明仁殿下と美智子さまのお住まいである渋谷常磐津の東宮仮御所はたいへん手狭であることから、皇居内の宮内庁病院で出産されることとなった。妃殿下の病院でのご出産は、初めての画期的なことであった。
宮内庁病院は、もともと倉庫として使われていた建物を改築して職員が利用していた病院であったから、設備も古くなっていた。そのため、妃殿下の産室にふさわしく、どのような事態にも耐えられる設備を整える必要があった。
ご出産には宮内庁侍医、宮内庁病院および東京大学産婦人科教室から応援を求め、新宮さまの万が一の場合に備えて、東京大学小児科とも連携を取りつつ、多くのスタッフが一丸となって取り組まれた。
つわりの美智子さまに学友が特製コンソメスープを届ける
ご懐妊を発表されてからも、美智子さまは依然として皇太子妃教育のご進講を受けられていた。和辻哲郎博士の「日本史」、田中耕太郎最高裁長官からは「憲法」、前田陽一東大教授からは「フランス語」、小泉信三博士の「お心得」、そして歌人の五島美代子さんからは「和歌」のご進講を受けられていたのである。美智子さまは、体に無理のない程度にこれらのご勉強を続けておられた。
つわりのひどい時期もあった。あまり食事が進まないと伝え聞いた友人代表が、特別に作ったコンソメスープを東宮仮御所に届けたこともあった。ご結婚前に、美智子さまが料理研究家の石黒勝代さんのもとで料理をいっしょに習った、聖心女子大学時代の友人たちの心づくしであった。石黒さんに指導してもらい、特別ていねいに調理したというやさしさあふれるスープである。美智子さまもさぞうれしかったことだろう。
なかなか生まれない新宮さまに「夕刊に間に合わない!」
2月23日、陣痛が始まりいよいよ入院されることになった。予定より1週間早いご出産である。午前1時、美智子さまはお見送りの皇太子殿下に元気に挨拶を交わされて自動車に乗り込み東宮仮御所をご出発された。午前1時50分に宮内庁病院にご到着、新装されたご静養室に入られた。すべては順調であった。
ところが予想外のことが生じた。なかなかお生まれにならないのである。病院のスタッフは全員緊張しきって待機している。美智子さまのお体にぴったりついて離れないかわいい小さなマイクロフォンも、けんめいに自分の大事な職務を果たそうとしている生き物のようであった。マイクロフォンでキャッチされた赤ちゃんの心音は、別室のスピーカーにつながり、規則正しい心音を刻んでいるからである。この音が鳴りやむときが、ご出産なのだ。
宮内庁病院の外には、報道陣が待ち構えていた。「日の出とともにご誕生」というタイトルを勝手に頭に描いていた一部報道陣の目論見は、もろくも崩れた。
「(宮内庁の発表は)1回目が『漸次陣痛が強くなってきている』、2回目が『ますます』、3回目が『さらに』というだけで、以下の文面はまったく同じではないか。4回目は『いっそう』とでもいうのか」
という新聞・テレビ関係者の怒りの声をなだめるのに、職員は大わらわだったという。
やがて「まだか、まだか」「もう(新聞の)夕刊に間に合わない」という悲鳴が聞こえ出すが、おなかの中の赤ちゃんは「まあ、あわてるな」とゆうゆうとしたものである。
ようやく午後3時50分ごろから赤ちゃんのご決心がつき、陣痛が激痛に変わり、午後4時50分に国民待望の力強い産声を上げられた。身長47センチ、体重2540グラムの親王であった。病院内は歓喜の声に包まれた。陣痛が始まってから、病院スタッフにとって緊張と興奮の15時間であった。
出産の報に耳たぶまで赤らめて病院へむかう皇太子殿下
美智子さまが宮内庁病院にご入院されたとき、ご出産の直前まで付き添ったのが、ご進講を続けていた歌の師である五島美代子さんであった。五島さんは、かつての自分の出産時の手記をお見せし、「自然の波に乗るように、素直に身をお任せになりさえすれば苦痛は耐えられます」
と励ましたという。
出産に臨んだ美智子さまは、枕の下にメモ用紙を入れて、陣痛と陣痛の合間にお歌をつくられていた。それを五島さんはご出産直前までご覧になっていた。
陣痛の間、皇太子殿下は東宮仮御所でまんじりともせずにお待ちになっていた。
「なにか知らせはないか」とまわりの人たちに何度も尋ねられた。産室近くの電話がひっきりなしに鳴っていたのは、すべて皇太子殿下からの問い合わせの電話だったという。
無事出産の知らせを聞いた殿下は、美智子さまのお好きなコデマリとエリカの花束を持って、宮内庁病院に駆けつけられた。父となった喜びで、耳たぶまで赤みを帯びて、上気した顔で走るように病院に入られたという。
生命の力強さを「子の紅(くれなゐ)の唇生きて」と詠まれた美智子さま
新宮さまは徳仁親王、ご称号は浩宮と名づけられた。活発で、生後間もなくご自分の指をとても強く吸われる。2日目にはぶどう糖液を差し上げたが、さいしょから哺乳瓶のゴム乳首を嫌わず、お吸いつきが上手で強かった。じきに美智子さまのお乳がお張りになり、浩宮さまを抱かれて、直接授乳されるようになった。
ご母乳が豊富だったから、制限せずに欲求のままにお飲ませすることになった。浩宮さまの生まれながらの健啖ぶりに、スタッフはみな顔を見合わせて驚いたという。体重もみるみる増えていった。
このときのご様子を、美智子さまはお歌に詠まれた。
浩宮誕生
含む乳の真白きにごり溢れいづ子の紅の唇生きて
これは美智子さまがお産の間に詠まれたなかから、五島さんが選りすぐったお歌である。「含(ふふ)む」は「ふくむ」の古語。「乳(ち)の真白きにごり」は、若い美智子さまの豊富に出る母乳をいう。初めて母となり、我が子にお乳を差し上げるとき、含ませた乳に吸いつく力強い生命力への感動がまっすぐに伝わってくるお歌である。
それまでの天皇家は、乳人(めのと)がお乳を差し上げるものであった。その慣例をやめ、皇太子妃自らが皇子に母乳を差し上げたのも、前例のないことであった。
ご退院の3月12日は、じつに暖かい日和であった。無心に眠るわが子の顔を眺めながら、浩宮さまをお抱きになってお帰りになる美智子さまの笑顔も、平和で美しいものであった。(連載「天皇家の食卓」第32回)
参考文献:『皇后陛下御歌集 瀬音』(大東出版社)、『浩宮さま 美智子妃殿下の育児』(佐藤久著、番長書房)、『皇后美智子さま 愛と喜びの御歌』『良子皇太后と美智子皇后』(ともに渡辺みどり著、講談社+α文庫)
文/高木香織
たかぎ・かおり
出版社勤務を経て編集・文筆業。皇室や王室の本を多く手掛ける。書籍の編集・編集協力に『美智子さま マナーとお言葉の流儀』『美智子さまから眞子さま佳子さまへ プリンセスの育て方』(ともにこう書房)、『美智子さまに学ぶエレガンス』(学研プラス)、『美智子さま あの日あのとき』、『日めくり31日カレンダー 永遠に伝えたい美智子さまのお心』『ローマ法王の言葉』(すべて講談社)、『美智子さま いのちの旅―未来へー』(講談社ビーシー/講談社)など。著書に『後期高齢者医療がよくわかる』(共著/リヨン社)、『ママが守る! 家庭の新型インフルエンザ対策』(講談社)。