52年後に再訪した抜海駅の姿
宗谷本線で最後の蒸気機関車を撮影した後、私が抜海駅を訪れたのは、52年後の2022(令和4)年でした。その年の春、抜海駅がもうすぐ廃止になる可能性があるという記事を読み、「いま行かないと」の思いが湧き出て、同年9月、抜海駅へ向かいました。
旭川駅13時35分始発、稚内駅行き特急「サロベツ1号」に乗りました。ただ、この日は、天候が崩れて、私が乗る特急以降の列車はすべて運休、翌日は、私が予約した稚内駅13時01分発の特急「サロベツ4号」より前の午前中の列車はすべて運休という、まさに、ギリギリセーフの状況でした。
旭川駅で、その日に泊まる予定の民宿のご主人から私の携帯に、「山口さん、夕方、稚内から抜海駅に行く列車が運休になりましたので、南稚内駅で特急を下車して下さい。お迎えに参ります」と連絡がありました。抜海駅から2km位の所にあるこの民宿のご主人は、ボランティアで抜海駅の掃除をしておられます。
私のように遠くから抜海駅を思うだけでなく、実際に駅を守っていらっしゃる事に頭が下がります。民宿の夕食は心のこもった美味しい料理で、宿泊されていたバイクライダーの方々と鉄道話で盛り上がりました。
私には抜海駅で、忘れられない思い出の道があります。1970(昭和45)年8月に初めて抜海駅で降りた時に見た、駅前から真っ直ぐ1km以上続く道です。道の先は、抜海原野と日本海に浮かぶ利尻富士です。2022(令和4)年のこの時も、抜海駅前から、このまっすぐな道を歩く事を楽しみにしていました。
宿を出てしばらく歩いていましたが、私が歩きたい、抜海駅に向かう細い道はありません。見つかったのは、二車線舗装でトラックが高速で走る道の標識です。
「えっ!もしかして!!」。なんと、私の記憶にあった小道は抜海駅前から200mくらいで、現在はなんと、その先は大型車が数多く走る立派な道になっていました。正直、この状況を見た私は言葉を失いかけました。気持ちが落ち着くと、半世紀近い年月が経っているのだから、変わっているのは当然で、昔のままを期待していた事に申し訳ない気持ちになりました。
抜海駅を訪れると、待合室内の壁には懐かしい写真が貼ってあり、思い出ノートには多くの方々がコメントを残されていて、駅構内は奇麗に清掃されていました。抜海駅は無人駅ですが、駅の前後にはポイントがあり、稚内方面のホーム下り線は1番線、旭川方面ホーム上りは2番線に分かれて、列車は別々の線路を走ります。
この日、午前中の列車は運休でしたので、ゆっくりと駅を散策することが出来ました。鉄道ファンの方で、この日、出会ったのは1人だけです。
抜海駅の駅長さんと数多くの思い出がある懐かしい官舎は跡形もなく、現在、駅前には一軒、家があるだけです。一日の平均乗降客数は2.2人。JR北海道が廃止の目安にしている「3人」を下回っています。抜海集落まで2km以上。駅を利用される方々が少ないことから“秘境駅”といっていいでしょう。
9月の暖かな晴天の日、駅にいるのは私一人。ホームにたたずみ、風の音を聴きながら、とてもゆっくりとした気持ちの良い時間を過ごしました。心残りは、昨日の夕方からの悪天によりJRの列車がすべて運休したため、JRで抜海駅に来られなかった事です。次回は絶対、JRの列車で抜海駅へ来ようと決めました。