6代目チェイサーは若者に大人気。ジャストサイズのFRスポーツセダンとして、現在も中古市場で人気が高いモデルです
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。ひとつの区切りとなる連載第50回目に取り上げるのは1996年にデビューし、21世紀になってすぐに絶版となった6代目トヨタチェイサーだ。
1977年に初代モデルが登場
今回はチェイサーの最後となったモデル(100系)を取り上げるが、そもそもチェイサーとはどんなモデルなのかを説明するために、初代モデルについて触れておきたい。
初代チェイサーは1977年にデビュー。3代目コロナマークII(以下マークII)の兄弟車として登場した。マークIIは3代目コロナから派生したブランニューモデルで、1984年デビューの5代目(GX70系)でコロナの名称が外れてマークIIとなった。マークIIがトヨペット店扱いだったに対し、チェイサーはトヨタオート店(後のネッツ店)扱い。トヨタオート店は1968年に初代スプリンターのデビューを機に設立されたトヨタの販売チャンネルのひとつで、マークIIクラスの需要の高まりに合わせ、トヨタオート店向けに設定された新型セダンだった。いわゆる兄弟車、姉妹車と呼ばれるものだ。
マークIIよりも若年層をターゲット
マークII、チェイサーとも欧州テイストとアメリカンテイストをミックスさせたデザインが与えられ丸型ヘッドランプから“ブタ目”の愛称で呼ばれていた。ただマークIIがヘッドライト内側に角型のライトを装着した4灯だったのに対し、チェイサーは完全な丸2灯。そのため、マークIIよりもグリルが大きく堂々とした出で立ち。リアコンビも若干差別化が図られ、『マークIIよりも若向け』というコンセプトだった。
ボディタイプは2ドアハードトップと4ドアセダンの2タイプあり、TV CMのキャラクターとして草刈正雄氏が起用されていた。初代チェイサーがデビューした時に筆者は小学生だったが、『和製アラン・ドロン』と言われた草刈氏は小学生男子が見ても、カッコよく『赤いチェイサー』が鮮烈だったし、その時の担任が新車で購入したこともあり、非常に印象に残っている一台だ。
斜め格子グリルがチェイサーの証
初代チェイサーはマイナーチェンジでフロントグリルのデザインを変更。前期型が縦桟のグリルだったのに対し、後期型は斜め格子状のグリルが与えられた。これはチェイサーのアイデンティティとして歴代モデルに引き継がれた。スカイライン=丸4灯のリアコンビランプ、というほど有名ではないが、トヨタ車では珍しいケースだろう。当然今回小迂回する6代目チェイサーにも斜め格子グリルは採用されている。
初代に関して言えば、筆者の地元の広島では、同世代の人間が免許を取ってすぐに、中古で2ドアハードトップを買う、または実家でファミリーカーとして使っていた4ドアセダンを譲り受けるなどして手に入れるケースが多く、当時の行きつく先はシャコタン……。そしてこれらの層が、後々のハイソカーブームの原動力となったのだ。
マークIIブラザーズで最も影が薄いチェイサー
チェイサーは若者をターゲットとしていたが、実際に若者が勝っていたかと言えばそうは思わない。そもそも若者が気軽に買えるようなクルマじゃなかった。それが一変したのがハイソカーブーム。若者がこぞって新車で白いボディカラーの4ドアハードトップを購入。その主役がマークIIだった。チェイサーも売れたが、マークIIの陰に隠れていた。
さらにトヨタはクレスタを加え、マークIIブラザーズを結成(3兄弟)。そして初期のハイソカーブームでは、クレスタが大人気となり、チェイサーの陰はさらに薄くなっていった。まぁ、影が薄いと言ってもほかのメーカーなら御の字というくらいに売れていたが、いかんせんマークII、クレスタが強すぎた。3兄弟を表現する時に、マークII/クレスタ/チェイサーと表記するのが一般的。この順序はすなわち、人気、知名度、力関係ということなのだ。
6代目は1996年にデビュー
チェイサーの販売台数はマークIIの1/3~1/4といったった感じ。それは歴代モデルともあまり変動はなく、今回取り上げる6代目も同じだ。しかし、6代目はチェイサー史上初と言っていいくらいの強烈なインパクトをクルマ好きにもたらしてくれた。
その6代目がデビューしたのは1996年。バブル崩壊後の退廃的なムードも薄れ、来たるべき1世紀の話も出始めていたころ。筆者は社会人5年目、安室奈美恵が大人気で、アムラーが街を闊歩し、安室奈美恵の細眉のテンプレートまで発売されていたのも懐かしい。一方男子は腰パンが若者の間で大流行。今では当たり前でなくてはならない存在となったインターネットが一般に普及し始めたのもこの頃で、たまごっちも人気からネット詐欺も横行していた(←筆者もその被害に遭った!!)。
3兄弟で大きく差別化
6代目チェイサーがデビューした時と言えば、セダンが売れず逆風が吹いていた。考えてみれば、セダンの不振はこの頃からだから、セダン受難は30年近く続いていることになる。そんななか登場したマークIIブラザーズは、マークIIは『洗練されたアドバンストセダン』、クレスタは『気品あるプレステージセダン』、そしてチェイサーは『ダイナミックなスポーツセダン』と、歴代で最も3車のキャラクターを差別化していた。
その結果、チェイサーのツアラー系には丸4灯ヘッドランプが与えられ、アンバーレンズのターンシグナルランプ(通称ウィンカー)、バンパー外側にビルトインされたイエローバルブのフォグが与えられ、シリーズで最もスポーティなエクステリアデザインに仕上げられていた。もちろんチェイサー伝統の斜め格子のグリルは健在。
キャッチフレーズは、『強い高級車に乗ろう』というもので、精悍なフロントマスクにちなんでホオジロザメをキャラクターに使っていた。
マスク替えは兄弟車の差別化としては一般的な手法だが、スポーツセダンを掲げるチェイサーは、マークII、クレスタよりもオーバーハングが前後45mm切り詰められていた。これによって前後からだけでなく、真横から見てもスポーティさが際立っていた。
ツインターボからシングルターボに変更
6代目チェイサーのボディサイズは、全長4715×全幅1755×全高1400mm。当時はチェイサーも肥大化したなと思ったが、今のクルマが全長は同じでも、全幅が1800mm超が当たり前になっているのを考えるとジャストサイズ。
エンジンは、2L、直6のNA(1G-FE)、2.5L、直6のNA(1JZ-GE)&ターボ(1JZ-GTE)、3L、直6のNA(2JZ-GE)に加えて2.4L、直4ディーゼルターボ(2L-TE)という5種類をラインナップ。
クルマ好きが注目したのは当然ながら2.5L、直6ターボ。型式こそ5代目と同じ1JZ-GTEながら、ツインターボからシングルターボに変更された。シングルターボ化の理由は、レスポンスの向上とトルクアップだ。実際にツインターボの1JZ-GTEが280ps/37.0kgmだったのに対し、シングルターボはパワーは280psのメーカー自主規制があったため280psのままだったが、最大トルクは38.5kgmにアップ。しかも最大トルク発生回転数が4800rpmから2400rpmに引き下げられたことで、低速でより扱いやすくなったのはもちろん、加速性能も大きく進化。ただ、個人的な感想としては、高回転の吹け上がりの気持ちよさは断然ツインターボだったと思っている。
気持ちいいトヨタの直6エンジン
直6エンジンは日本メーカーでは現在に至るまでトヨタと日産しか市販化していない。日産のRB系の評価が高く、その頂点に君臨していたのが第2世代GT-Rに搭載された2.6L、直6ツインターボのRB26DETTというのは誰もが認めるところだが、筆者は1JZ-GTEのツインターボを搭載した5代目マークIIを運転した時に、RB系より気持ちいいかも、とさえ思った。スープラなどに搭載された3L、直6ツインターボの圧巻のパワー感、トルク感とは違う気持ちよさに惚れ込んだ。トヨタの直6エンジンは、1G系のハイメカツインカムのイメージから、官能性はほぼゼロというイメージの強かっただけに、恐るべしと感じたものだ。
ツアラーVが大人気
魅力的なFR(後輪駆動)スポーツセダンとして認知された6代目チェイサーで、クルマ好きが注目していたのは、やはりツアラー系。マークIIはグランデ、クレスタはスーパールーセント、チェイサーはアバンテ、というのが上級グレードだったが、5代目で登場したツアラー系が大人気。そしてみんなのお目当ては2,5Lターボ搭載のツアラーVで、それに次いだのが2.5LのNA搭載のツアラーS。ちなみにより高級感を追求したクレスタにはツアラーは設定されず、その代わりルラーンというグレードが設定されていた。
舘信秀氏を試乗に招聘
筆者は当時自動車雑誌『ベストカー』の編集部員として、撮影会、試乗会、ゼロヨンテスト、企画モノ取材など、いろいろ担当させてもらった。6代目チェイサーでは、竹平素信氏、伏木悦郎氏による試乗&性能テストなどが行われ、そのポテンシャルの高さが証明されていたが、ある人物に試乗してもらうことを企画。その人物とは、トムスの舘信秀氏だ。筆者はモータースポーツ担当という絡みから、舘氏のチェイサー試乗をアテンド。
トヨタ系の舘氏だから、チェイサーのことを悪く言う訳がないため、『提灯記事』になる恐れもあったが、なぜ舘氏を招聘したのか? それは、トムスがJTCC(全日本ツーリングカー選手権)というレースに6代目チェイサーをマシンとして投入しようとしていたからだ。クルマのよし悪しを評価してほしいのではなく、舘氏=チェイサーという威を借りたのだ。
チェイサー史上初のレース参戦
JTCCは1994年に始まったツーリングカーレースだったが、R32型GT-Rが席巻したグループA時代のような人気はなかった。しかし、現在のスーパーGTのGT500のようにトヨタ、日産、ホンダの3大ワークスがしのぎを削っていた。
チェイサーは1997年シーズンから実践投入されたのだが、チェイサーを選んだのは舘氏曰く「FRのほうがタイヤを有効に使えるメリットがあるなか、マークIIブラザーズのなかではチェイサーが最もスポーティだから」。
ただ、「トヨタからはチェイサーは今人気があるから、結果を出すことは必須」とかなりプレッシャーをかけられたという。レーシングマシンと市販車は別物と言っても、素性がよくなければ、レースで勝てない。
投入一年目にすぐに勝てるほどJTCCも甘くなく、翌1998年シーズンの飛躍を目指して開発を進めていたのだが、想定外のことが勃発。1997年シーズンをもって日産とホンダのワークスがJTCCを撤退してしまった。
そのため1998年シーズンは、ほとんどチェイサーのワンメイク状態となり、トヨタのエースドライバ―、関谷正徳氏がチェイサーでチャンピオンを獲得したが、舘氏、レースファンにとっても消化不良のまま、その年限りでJTCC自体も消滅してしまった。日産&ホンダファンは、「アコード、プリメーラが出ていれば、チェイサーはチャンピオンを獲れなかった」という意見も出ていたが確かめようがない。
チェイサーは6代目で絶版
6代目チェイサーはスポーティさを前面に押し出し、FRスポーツセダンが好きな若者に大人気となった。MTが設定されているのは、このクラスのクルマとして今では考えられなかったが、一部に人気。ただ、メインはATだったため、希少性からMTの中古車が爆上がりしている。
この代のトータルの販売台数では、歴代モデル同様にマークIIの1/3程度というのは変わらなかったが、チェイサー史上初めてコンセプトどおり若者から支持された。
そして、スポーツモデルの2,5Lターボ&NAのツアラーV&Sの販売では、マークIIを凌駕するという快挙を成し遂げた。
歴代チェイサーで最も市場に爪痕を残した6代目だったが、皮肉なことにこのモデルをもってチェイサーは絶版となってしまった。同様にクレスタも消滅し、両車を統合した後継車がヴェロッサなのだ。いや~、このヴェロッサの突き抜けたファニーなデザインには驚かされたものだが、次期チェイサーに期待していた人は目が点になったことだろう。
中古車はハードルが高い
6代目チェイサーはFRスポーツセダンというキャラからもドリフト系で今でも人気が高く現役のドリフトマシンもいるほど。
全国に流通している中古車は、常時150台程度で、中古相場はまさにピンキリ状態。下は80万円前後から上は700万円オーバーと価格レンジが広い。しかも20万㎞超えのモデルも少なくない。そして顕著なのが、MTのほうがATより圧倒的に高値を付けていること、ノーマル状態のクルマが希少で、ほとんどはドレスアップやチューニングが施されたモデルとなっていることだ。
年式、使用環境を考えるとエンジン、駆動系にも不安が残る。同年代の2ドアクーペなどよりも、素人が手を出すにはハードルが高い中古車と言えるだろう。
ただこの中古人気が続いていることこそ、最終となった6代目チェイサーの後席を物語っている。
【トヨタチェイサーツアラーV主要諸元】
全長4715×全幅1755×全高1400mm
ホイールベース:2730mm
車両重量:1470kg
エンジン:2491cc、直6DOHCターボ
最高出力:280ps/6200rpm
最大トルク:38.5kgm/2400rpm
価格:322万2000円(5MT)
【豆知識】
2代目チェイサーは1980年に登場。前期モデルは地味な4ドアハードトップで人気もイマイチだった。マークIIと同時に1982年10月にビッグマイチェンを受けてフロントマスクを一新すると同時に、『ツインカム24』と謳った2L、直6DOHCエンジンを搭載して販売激増。スラント下ノーズはマークIIよりもスポーティだった。ただ、マークIIとはひと味違う高級感を前面にアピールしたブランニューFRセダンの初代クレスタの人気もあった存在感が薄まってしまった感は否めない。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/TOYOTA、ベストカー