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速さこそ正義!!

圧巻の運動性能が与えられていた初代アリスト。その初代アリストといえば、奥田碩氏。奥田氏は1995年にトヨタ自動車の社長に就任したが、アリストは奥田氏の愛車としても有名。自らステアリングを握り高速を疾走する奥田氏のアリストでの武勇伝? は当時有名だった。

初代アリストのキャッチコピーは、デビュー時が『創世・アリスト』という、新たなチャレンジをアピールしていたが、途中から『走りを忘れた大人たちへ』と変更。これはRVブームを揶揄した表現だったように思うが、昔取った杵柄ではないが、アリストによって『回春』したクルマ好きは少なくない。いつの時代も”ちょっと悪”なのが人気だが、その代表選手が初代アリストだったように思う。

アリストの速さは多くのクルマ好きを魅了した。まさに速さこそ正義!!

太く短く鮮烈に!!

初代アリストは見てよし、走ってよしのスポーツ色の強いプレミアムセダン。しかし販売された時期が悪かった。初代アリストがデビューした1991年は微妙で、政府の見解ではバブル崩壊は1991年ということだったが、求人倍率は今でも1991年を上回っていない状況だったのでデビューした年はまだよかった。しかし1992年からは地価の大幅下落が顕著になるなどバブル崩壊の影響が如実に出てしまい日本の景気が大幅にダウン。

インテリアはオーソドックス。もう少し凝ったデザインでもよかったかも

トヨタは初代アリストの月販目標を3500台としていた。400万円クラスのブランニューセダンとしては強気の数字だ。トヨタの期待が込められているのがよくわかる。イケイケ時代ならトヨタの目標値を上回るように売れたであろう初代アリストも、その後平成不況に突入したことが大きく影響して6年間で約7万台を販売。月販平均にすると1000台程度ゆえ目標からかけ離れていて、数字上は成功したとは言い難い。

しかし、日本車初のグローバルに通用するスポーツセダンだったし、好きな人はとことんハマるクルマだった。それは、初代の後を継ぎ1997年に登場した2代目も同じ。初代、2代目ともに日本の個性はセダンとして太く、短くかつ鮮烈にモデルライフを生き抜いた貴重な存在だと思う。

1997年に登場した2代目は完全トヨタデザイン。個性はプレミアムセダンとして根強い人気を誇った

【初代トヨタアリスト3.0V主要諸元】
全長4865×全幅1795×全高1420mm
ホイールベース:2780mm
車両重量:1680kg
エンジン:2997cc、直6DOHCターボ
最高出力:280ps/5600rpm
最大トルク:44.0kgm/3600rpm
価格:474万円

アリストのクルマ作りがトヨタのセダン系モデルを大きく変えた

【豆知識】
クラウンロイヤルは1991年10月にデビュー。クラウン伝統の大型のラジエターグリルによる押し出しの強いフロントマスクを捨て、セルシオ風のすっきりとまとめたデザインで登場。さらにエアロフォルムをまとったため旧型よりも小さく見えるというのが既存、新規ユーザーからも大不評で販売面で苦戦。4代目の通称クジラクラウン以来の失敗作の烙印を押されてしまった。それに焦ったトヨタは1993年にビッグマイチェンを敢行し、フロントグリル、リアコンビランプのデザインを変更して失地回復。トヨタにとってクラウンの存在感を改めて知ることになったモデルだったといえるだろう。

おとなしくて不評だった7代目クラウンは1993年にビッグマイチェン。写真はマイチェン後のモデル

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

写真/TOYOTA、ベストカー

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