グラントハイツ建設
成増飛行場の地には、米陸軍家族住宅が建設されることになり、1947(昭和22)年3月からその名称を成増飛行場(成増住宅とも呼ばれた)から、「グラントハイツ」に改めた。この“グラント”とは、第18代アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・“グラント”氏の名を冠したものだった。
同年4月からはじまった米軍家族住宅の建設によって、軍用線の駅名も6月から啓志駅から「グラントハイツ駅」へと改称した。この建設は1948(昭和23)年まで続き、その資器材輸送も軍用鉄道の目的の一つだった。蒸気機関車がけん引する貨物列車は、頻繁に行き来したという。
1947(昭和22)年12月からは正式に、米軍関係者向けの“乗客輸送”もはじまった。グラントハイツ駅を出発した列車は上、板橋駅を経由し東武東上線へ乗り入れ、池袋までノンストップで結んだという。車両は、運輸省(のちの国鉄)から借り入れたディーゼルカー(気動車)を使用した。ゆくゆくは、池袋から鉄道省山手線(のちの国鉄線→現JR)へ乗り入れて、東京駅まで直通運転する計画だった。しかし、その後の乗客の伸び悩みもあって断念している。
短命に終わった乗客輸送
通称「啓志線」と呼ばれた米軍専用鉄道は、グラントハイツが完成し、建設資材輸送が終わりを迎えると、米軍の物資輸送のみに縮小され、貨物列車の運転本数は減少した。それと同時に、米軍関係者の利用も減少し、鉄道省から借り入れていたディーゼルカーも3か月足らずで返却している。1948(昭和23)年2月、米軍専用線から乗客輸送は姿を消した。
貨物輸送を細々と行っていた啓志線であったが、1950(昭和25)年6月にはじまった朝鮮戦争によって、米軍士官などの関係者らが啓志線の利用を熱望したため、乗客輸送は復活した。この利用は、朝鮮戦争が休戦となった1953(昭和28)年以降もしばらく続いたという。国鉄線から蒸気機関車がけん引する客車列車が、そのまま乗り入れていたとされる。
1957(昭和32)年8月には、いよいよ啓志線の運行は“停止”された。おそらくこのタイミングで啓志線は接収解除となったのではないかと思われるが、明確な資料の発見には至っていない。グラントハイツの接収についても、1954(昭和29)年以降から一部の建物などで接収が解除されている。1959(昭和34)年になると、グラントハイツに住む米軍関係者は、立川や横田といった他の米軍航空基地へと転居していった。これに合わせるように、同年7月22日に啓志線は廃止された。この廃止時点での正式な路線名は、「グラントハイツ専用側線」であった。

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