東京都世田谷区で一番標高の高い場所である、東急田園都市線の桜新町駅から北東へ10分ほど歩いた閑静な住宅街に、まるでヨーロッパの古城を思わせる建造物がある。東京都水道局が管理する「駒沢給水所」という水道施設だ。この施設が完成したのは1924(大正13)年3月のことで、2024(令和6)年で創建100年を迎えた。この大正ロマンあふれる独創的なデザインの建造物に思いを馳(は)せながら、水道の歴史という蛇口をひねってみてはいかがだろうか。
※トップ画像は、駒沢給水所の中から見た双子の給水塔を写したもの。この配水塔は東京都世田谷区弦巻(つるまき)2丁目にある=2004(平成16)年10月1日、東京都世田谷区
町営水道の構想
いまだ上水道が整備されていなかった大正時代の初期。当時の東京府豊玉郡渋谷町(現在の東京都渋谷区の一部)は、町の発展とともに人口が増加し、井戸水の水質悪化や枯渇(こかつ)など、飲料水の不足に悩んでいた。1917(大正6)年になると、渋谷町は単独で水道を敷設することを決め、その計画に取りかかった。
水源は多摩川で、その川底を流れる伏流水(地下水)を採取し、一旦、東京都世田谷区鎌田にある砧浄水場(現在の砧下浄水所)で濾過(ろか)した後、駒沢給水場へと送水する計画を打ち立てた。その水は、駒沢給水場内に設けた配水塔に貯められ、ここから渋谷町へと送水することになった。完成当時は、浄水“場”、給水“場”が正式名称であった。
落差圧を生むために建設した配水塔
駒沢給水場から渋谷町までは、直線で6キロメートルあり、高低差のある東京らしい地形ゆえに、どのようにして送水するかが課題となった。そこで「配水塔」に水を貯めることで生まれる「落差圧」を利用して、渋谷町まで送水する方法が取られた。この考え方は、当時の日本では斬新なものであった。
配水塔は、「町営水道施設」として建設することになり、その設計は“我が国の近代水道の父”と呼ばれた中島鋭治博士が手がけた。
アールデコ調のデザイン
ヨーロッパの古城を思わせるような配水塔は、アールデコ様式が取り入れられた。同じ形の配水塔が双子のように建つその姿は、2つの塔を真横から見るとその完成されたデザインには圧倒される。このユニークな形をした給水塔は計画当初全部で3塔建つ予定だった。
鉄筋コンクリートでできた円筒の形をした2基の配水塔の上部には、王冠を模した装飾電球が施され、完成当時は「丘の上のクラウン」とも呼ばれ、夜間に灯される装飾電球の明かりは、遠く横浜の地からも視認できたという逸話が残されている。