白兵戦について
師走に「各個戦闘状態」の家族とは
幼いころ、教師から二宮金次郎の話を聞かされて以来、「かたときを惜しんで励む」というソラ怖ろしいトラウマを抱えてしまい、しかも不幸にして家産が破れてしまったので、勤労学生としてそれを体現してしまい、さらに自衛隊生活では「一秒が死命を制する」と叩き込まれ、その後の虚むなしい投稿人生で酒を覚える暇もなく、希(ねが)ったわけでもないストイックな生活の果てに、曾国藩とか伊能忠敬とかいう人物を尊敬してしまい、結果的には悲願の小説家となるにはなったのであるが、要するに貧乏性なのである。
快楽は罪、惰眠は罪、飽食は罪、セックスだって罪、ボンヤリしていることも罪という一種の強迫観念に捉われて、あくせくと日を送っている。
暦(こよみ)は師走。原稿取りの編集者から「先生」とひとこと呼ばれれば、たちまち「師走」という言葉が胸につき刺さる。育ちが悪いので、そもそも「権利」という概念を持たない。言われたことはすべて「義務」だと考えてしまう。
こういう生活を続けていると、家族との絆は断たれてしまうのである。
折しも老母は、糖尿病、心臓病、関節炎、胃腸病等の多発性疾患により、朝から晩まで病院めぐりをしている。家人は経営するブティックが歳末バーゲンに突入したので猫の手も借りたいほど忙しい。娘は大学入試直前で、補習やら予備校やらと、息をつく間もない。そこにきて、家長は二宮金次郎なのである。
俗にいう「すれちがい家族」などというなまなかなものではない。私が目覚めたころには、家族はみなすでに家を出ており、彼女らが三々五々帰ってくる時刻には、私は書斎にたてこもっている。
犬猫の食事の時間に合わせて、誰かが廊下に私のエサを置いて行く。
「ごはんです」
「はい、いただきます」
続いて庭で声がする。
「ごはんよ、パンチ」
「ワン、ワン」
ごくたまに、奇跡的な会食も行われるのであるが、それとてみんなクソ忙しいものだから、私はファックスの束を読みながら、家人は帳簿や伝票類を、娘は参考書を、母は『蘇る!』とか『壮快』とかを読みながら、黙々とメシを食う。
夜更けともなれば、それぞれが勝手にソファや床の上に転がって寝ているのであるが、すでにたがいの健康を気づかう意思など誰にもない。みなてめえのことだけで精一杯なのである。
親子の会話らしい会話といえば、真夜中のキッチンで夜食をあさっているときぐらいで、
「どうだ、調子は」
「まあね。パパは」
「まあな」
というような、不毛このうえない一瞬の対話がかわされる。
断絶、というのとはちとちがう。表現は難しいのであるが、正確無比な軍隊用語を用いるならば、「各個戦闘状態」とでもいうのであろう。
孤立した陣地の中で、部隊はすでに組織的抵抗力を失い、兵士たちはそれぞれに迫りくる当面の敵と戦っているのである。相互の通信は不能となり、兵站(へいたん)線は杜絶(とぜつ)している。