バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第117回は、「ふたたび老化について」。
遅咲きの作家ゆえの遅咲きの近眼発症
老眼になってしもうた。
年齢のわりにはちと早い気もするのだが、どうやら本物らしい。ひそかに思いを寄せる三田佳子ふう眼科医に、
「きっと仮性老眼ですよねえ、せんせ。僕、ちかごろオーバーワークだから。ねえ、そうですよね」
と訊けば、
「仮性老眼? ——そんなものはありません。正真正銘の老眼ですわ」
とすげなく言われ、サッサと老眼鏡の処方を書かれてしまった。
「ち、ちょっと待って下さい。近眼の人は老眼になりにくいって言うじゃありませんか。ねえ、せんせ」
「それは俗説ですわ。医学的な根拠はありません」
「あのう……細かな字を読むときにメガネをかけかえるのってイヤなんです。そういうのってジジむさいでしょう」
「ジジむさいのどうのではなく、あなたはジジイなのです」
「…………」
「メガネを使用するかしないかは、あなたの自由意思ですわ。べつに病気じゃないんですから。はい、楽になりたかったら、これを持ってお近くのメガネ屋さんへ」
「じゃあ、かけなくてもいいですね」
「ですから、それはご自由に。ちなみに、いちいちメガネをかけかえるのがイヤなら、遠近両用というのを使用なさったらいかがでしょう。ま、ご職業がらマメにかけかえられた方がいいと思いますけどね」
「では、こちらもちなみに。せんせは老眼の男なんて、嫌いですよね」
「ジタバタする男はもっと嫌いですわ」
かくて私の老眼は、医学的に確定したのであった。
そもそも私の目は、たいそうイレギュラーなのである。
生れつき視力は良かったのだが、中学生のころ突然「斜視」になった。俗にいうロンパリというやつで、これはどうやらそのころ患った神経症と因果関係があったらしい。
長いこと世界が湾曲して見えるような、プリズム状の矯正(きょうせい)眼鏡をかけていた。
しかし依然として視力は抜群であった。ために自衛隊時代は鉄砲が良く当たり、演習に際してはしばしば狙撃手を命ぜられた。もちろんプレーンかつオーソドックスな軍隊生活の結果、神経症も斜視も十二指腸潰瘍も嘘のように治った。
左右2.0というこの視力は、その後の度胸千両的生活においても威力を発揮した。どういうことかというとつまり、見つかる前に見つけてしまうので、ここで会ったが百年目の災厄はことごとく免れたのであった。しかも、目が良いうえに逃げ足も早かった。
ところが、である。40の声を聞いたとたん、急激に視力が衰えた。俗に言う中年のカスミ目かな、とタカをくくっていたある日、競馬場でオッズの数字を見まちがえてしまい、大損をこいた。あんまりくやしかったので目医者に行き、カスミ目を治せと迫ったところ、立派な近眼であった。
40になってからの近眼というのはあまり聞かない。しかし、この特殊な症例の原因は明白であった。要するに、それまではしごくノンビリと、盆栽でもこさえるように小説を書いていたのであるが、突然マジメになったからであった。
遅咲きのパワーは怖ろしい。作家生活を長いこと夢に見続けており、実生活も飢え渇しており、しかもデビューしたとたんに余命を算(かぞ)えたりする。結果、ほとんど強迫的に原稿を書きまくる。
この急激な生活の変化が、突然の視力の低下をもたらしたのであった。
実はそのときもメガネはイヤであった。時すでにハゲおよびデブであったので、これにメガネが加われば、絵に描いたような中年三重苦となるからであった。
近眼鏡も相当にガマンをした。しかしまたしてもオッズを見まちがえて大損をこき、パドックでは毛ヅヤがてんで見えず、またあろうことか麻雀に際しては、対面(トイメン)から打ち出された「南」を「発」と見まちがえて、生涯痛恨の「緑一色(リューイーソー)チョンボ」をこいた。
かくていたしかたなく近眼鏡はかけた。しかし、そのわずか4年後に老眼の宣告を受けるハメになろうとは、夢にも思ってはいなかった。