今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第32回目に取り上げるのは、初代トヨタエスティマだ。
百花繚乱の1989年
日本車を語るうえで非常に重要な年として挙げられるのが1989年。ユーノスロードスター(初代)、日産スカイラインGT-R(R32型)、日産フェアレディZ(Z32型)、トヨタセルシオ(初代)、日産インフィニティQ45などなど、もの凄い勢いでそれまでの日本車の常識を覆すモデルが数多く登場したことから『日本車のビンテージイヤー』と称されている。
その1989年の東京モーターショーで初公開されたのがトヨタプレビア。プレビアは初代エスティマの北米&欧州向けの車名。これが後に日本用の車名としてエスティマとしてデビューすることになるのだが、当時は日本ではプレビアとしてデビューするものと思われていた。
東京モーターショーでは脇役
そのプレビアは、コンセプトカーのように滑らかで煌びやかなワンモーションフォルムの1BOXカーだったが、何しろ東京モーターショー1989は、各メーカーの主役が勢揃いしていた。トヨタは4500GT、ホンダはNS-X(市販時はNSXながらプロトタイプはハイフンが入る)を公開していたので、プレビアは正直目立たない脇役と言った感じ。
筆者は当時大学生で、この年の東京モーターショーを見に行った。どのブースも人だかりが凄く、主要の自動車メーカーのカタログをもらうには1時間程度かかるなんてザラだった。そんなこともあって筆者はプレビアの存在は正直覚えてなくて、クルマ雑誌の東京モーターショーレポートで知ったくらいだった。
そのプレビアが日本デビューを果たしたのは1990年5月。車名はプレビアではなくエスティマ。ESTIMAの車名は英語で「尊敬すべき」という意味のESTIMABLE(エスティマブル)から命名されたという。
東京ショーでは脇役だったが、実際にデビューしてみてビックリ。とにかくクルマから発するオーラが強烈だった。当時のコンセプトカーと言ってもいいくらい煌びやかで、「コンセプトカーそのまま市販された!!」というのが筆者の仲間内でも話題になった。
あくまでも個人的な印象だが、登場時のデザインのインパクトという点で初代エスティマが日本車のトップだと思っている。それに匹敵するのは、初代マツダRX-7(SA22C)かな。子ども(大学生)ながら、初代エスティマのデザインには驚かされた。
日本車で多人数乗車モデルと言えば、乗用系では初代日産プレーリーが元祖。しかし一般的なイメージではトヨタハイエース、日産キャラバンなどの1BOXが主流だった時代に、あのデザインで登場したのは快挙でしょう。ワンボックスタイプのクルマでありながら、赤をイメージカラーとしていたのも異質だった。