東京都奥多摩町と山梨県丹波山村・小菅村の3町村にまたがる「奥多摩湖」。正式には“小河内(おごうち)貯水池”といい、多摩川の上流を堰き止めて造られた「小河内ダム」によって形成された人造湖である。このダムを建設するために敷設された貨物専用鉄道は、のちに観光鉄道へと転用させて、奥多摩湖畔に計画された一大レジャー施設へと乗客を送り込む腹づもりだった。なぜ、この計画は頓挫し、幻となってしまったのか。そこには、一大コンツェルンでも“太刀打ちできない”理由があった。
※トップ画像(筆者所蔵)は、日原川(にっぱらがわ)橋梁をゆく、ダム建設資材を積んだ貨物列車。写真の奥に位置する辺りが現在の奥多摩駅=1955(昭和30)年頃、東京都奥多摩町
“帝都御用水”という光栄なる犠牲
桜の名所としても知られる東京の奥座敷「奥多摩町」。新宿駅からJR中央・青梅線のホリデー快速に乗れば、1時間40分で終点の奥多摩駅に到着する。そこからさらにバスへ乗り換えること15分で、標高530メートルの“水道専用貯水池”としては日本一の規模を誇る「小河内ダム」が目の前に現れる。このダム湖は「奥多摩湖」と呼ばれ、“ダム湖百選”にも選ばれている。貯水容量は、1億8540万立方メートル(東京ドーム約150杯分)もあり、完成した当時は「世界最大規模」を誇る貯水池だった。
ダム湖の建設計画は、1926(大正15)年にまでさかのぼる。数ある建設候補地の中から、東京府小河内村(当時)が選定された。1932(昭和7)年に、ダム建設の認可申請手続きが開始されると、東京府は「幾百万市民の生命を守り、帝都の御用水のための光栄ある犠牲である」として、小河内村を説得した。これに対し、小河内村は”絶対反対”だったとする文献も見られるが、旧小河内村が作成した当時の報告書によれば、村長は直ちに了承したものの、「村議や村民らを説得するのに時間を要した」と、記録には残されている。こうした史実は、小学校の社会科授業で見る“教材映画”にもなった。
その後も、東京府(現・東京都)と神奈川県で水利紛争が巻き起こるなど、小河内ダムの建設は難航を極めた。
世界最大規模を誇ったダム湖の建設
1938(昭和13)年11月にダム建設が起工し、先ずは多摩川の流れを付け替える仮排水路や、資材等を運搬するための専用道路の建設と基礎岩盤掘削などの工事に着手した。その間には、“先の大戦”による5年間の工事中断もあった。その後は、1953(昭和28)年3月からのダムコンクリートの打設工事に合わせて、セメントや川砂などの資材を輸送する必要が生じた。
そもそも、鉄道による資器材等の輸送は、当初の計画にはなかった。戦後になり、ダム工事を再開するにあたり、改めて輸送方法を検討することになり、鉄道、トラック、索道(ロープウェイ)の中から経済的かつ効率的な手段を選ぶことになった。その結果、1949(昭和24)年1月に「鉄道による貨物輸送」が決定した。新設する貨物線は、国鉄青梅線の氷川(ひかわ/現JR奥多摩)駅から、ダムが建設される奥多摩町の水根(みづね)地区まで建設されることになった。
貨物線の将来は「観光鉄道」
鉄道の建設に着手したのは、1949(昭和24)年3月のことで、測量から実施設計までのすべてを国鉄(現JR東日本)が請け負った。当時の日本はまだGHQの占領下にあり、貨物専用の鉄道として敷設免許を受けることは困難と考えられた。そのため、氷川駅から分岐する「側線」という扱いで路線の計画はスタートした。
当時の国鉄における「側線」の定義は、駅に隣接する工場などへの引き込み線を想定したもので、線路の延長は3km以内とされていた。しかし、ダム建設促進という“使命”のもと、特例措置による約6.7kmもの「側線建設」は認められた。そして、ダム完成後は「観光鉄道」へと転身できるように、当初からトンネルは電車が走れる大きさで建設され、線路の幅も氷川駅で接続する国鉄青梅線に合わせた1067ミリとなった。路線の約半分は、「トンネルと橋梁」で造られ、最急こう配は30パーミル(1000m進んで30m登る)という「山岳路線」でもあった。
1952(昭和27)年11月、「氷川駅」からダム建設現場に併設された「水根積卸場(みづねつみおろしじょう)駅」までの6km734mを結ぶ、単線による”側線工事”は竣功した。線路完成後の12月16日からは、実際に資器材輸送が開始され、蒸気機関車に貨車数両を連結した貨物列車の運行が開始された。