史跡や文化人ゆかりの地に歴史ある建築物。それだけ見どころがあれば、散策しがいがあるってものです。これまで様々なさんぽを提案したおと週が今回オススメするのが、「江戸さんぽ」。大河ドラマの舞台が江戸で今が旬。江戸を感じる旅へ、いざ参ろう。
谷中に寺が多いのは?時は江戸に遡る……
改めて谷中を歩いてみると、多くのお寺が散在していることに気づかされる。しかも宗派も様々だ。そんな“寺町”がどうしていつ生まれたのか、そんな疑問を発端にのんびり谷中を歩いてみることにした。寺町の形成は、調べてみると江戸時代に遡る。江戸は何度も大火に見舞われているが、そうした中、幕府は火災や疫病の予防、都市の秩序維持のために寺社を郊外に移転させる政策をとったらしい。特に明暦の大火(1657年)では市中の寺院が消失。以降、多くの寺が移された。加えて市中から北東の方角は「鬼門」とされ、寺社を配することで災いを防ぐ意図もあったとか。さらに幕府は特定の宗派を優遇しなかった。それゆえ各宗派が並立し、各寺院が根付いていったらしい。なるほど。
さてスタートは、日暮里駅南口から坂を上がってすぐの「天王寺」から。創建は鎌倉時代と言われ、実は都内有数の古刹だ。山門をくぐれば古刹らしい落ち着いた風情があり、傍にはシンボリックな「天王寺大仏」が。そして実は江戸時代の天王寺の寺域は今よりずっと広い。というのも現在の「谷中霊園」は、明治政府が同寺の寺域の一部を没収し、公共墓地として開設したものだからだ。そんなわけで、谷中霊園内には、かつての天王寺五重塔跡や、もともと大仏があった場所に台座跡があったりする。ちなみに霊園中央のさくら通りは、かつては天王寺の参道で、大いに賑わったとか。
霊園を五重塔跡から右に折れ、次は「観音寺」へ。見逃せないのはその外壁「築つい地じ塀べい」だ。土と屋根瓦が交互に積み重ねられた意匠は幕末期のもの。それが現存するのがなんともいいねえ。ちなみに観音寺は赤穂浪士ゆかりの寺で、寺内でしばしば会合を重ねた寺でもあるそうだ。
【天王寺】
鎌倉時代後期の創建と言われ、かつての名は日蓮宗・感応寺。元禄12年に幕府の命令で天台宗に、天保4年に名前も天王寺に改められた。境内には元禄期建立で、“天王寺大仏”として親しまれてきた銅像釈迦如来像(台東区有形文化財)も鎮座している
[住所]東京都台東区谷中7-14-8
【谷中霊園】
明治7年、明治政府が東京都管轄の公共墓地として開設。かつては天王寺の寺域でもあり、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなった天王寺五重塔跡や、かつて天王寺大仏が置かれていた台座跡も残る。徳川慶喜の墓を始め多くの著名人の墓も存在する
[住所]東京都台東区谷中7-5-24
【観音寺(築地塀)】
観音寺の南面に残るのが江戸時代に築造された築地塀だ。土と瓦屋根が交互に積み重なった重厚感ある姿は往時のままで見応え十分。国登録有形文化財に指定され、「台東区まちかど賞」も受賞している。観音寺は赤穂浪士ゆかりの寺としても知られ、寺内の四十七士慰霊塔には今も「忠臣蔵」ファンなどが多く訪れているそうだ
[住所]東京都台東区谷中5-8-28