時代劇を見ていると時折、屋台のそば屋が登場することがある。立ち食いそば、しいて言えば「駅そば」のルーツだろう。ひと昔前は、“立ち食いそば・うどん”といった呼び方が一般的ではあったが、今となっては「駅そば・うどん」のほうがしっくりくる。“駅弁”とともに歩んできたその歴史は、いつの日からはじまったのか。駅のファストフードの元祖「そば・うどん」にまつわる鉄道史の一面を垣間見ることにしたい。
※トップ画像は、JR九州・小倉駅の構内にある“駅うどん”のお店「玄海うどん」。こうしたオープンカウンターの「駅そば・うどん」店は減少傾向にある=2024年12月14日、北九州市小倉北区
「駅ナカ」のはじまり、イギリス人による「新聞立ち売り(新聞売店)」
「駅ナカ」などと呼ばれる駅の構内にある店舗は、古くは明治の時代から許可制により店舗運営が行われてきた。駅のなかで“営業行為”をすることから、「構内営業」と呼ばれ、JRの礎となる日本国有鉄道〔国鉄〕の時代には、「国鉄構内営業中央会」という組織などによって統括されていた。
元々は、個人商店や駅周辺にあった旅館や料亭などが、鉄道省(国鉄)や鉄道事業者から許可を得たうえで、駅構内に店舗を構えるなどして商売をはじめたのがきっかけだった。最初に営業許可が出されたのは、日本に鉄道が開業した1872(明治5)年のことで、イギリス人による「新聞立ち売り(新聞売店)」だった。日本人としては、横浜駅(現・桜木町駅)で小間物・唐物・旅行用品を販売した、いわゆる「雑貨店」を経営した赤井金次郎氏と記録にはある。
駅のなかで「構内営業」をはじめた当初は、出店料という概念がなかった。その後、1875(明治8)年になると1年契約で36円、1902(明治35)年には同120円を徴収するようになった。この制度は現在も踏襲されており、テナントごとの売り上げに対して一定のロイヤリティを徴収している。ガムひとつ購入しても、その代金の数パーセントが鉄道事業者やその関連業者の懐に入る仕組みだ。
ちなみに、駅構内における「食堂」のはじめては、当時の新橋駅(旧・汐留駅)に上田虎之助氏なる人物が構内営業の許可を受け、西洋料理、洋酒等を提供したのが最初とされる。駅弁は、1885(明治18)年に当時の日本鉄道(現・JR宇都宮線)の宇都宮駅近くで旅館を営んでいた白木屋嘉平氏が、同駅で食料品を販売した際に、梅干しの入った“にぎり飯2個とたくあん”を竹の皮に包んで販売したのが最初だといわれる。
起源に諸説ある「駅そば・うどん」
昭和の時代、駅で「立ち食いそば」をすする女性の姿など、皆無と言っても過言ではなかった。巷の牛丼チェーン店しかりである。昨今のように、老若男女の誰もが利用している光景を目にするようになったのは、平成の時代に入ってからのことだろうか。
それまでの「駅そば・うどん」は、外観の見た目や店内のデザイン云々よりも、早く、安く提供さえしてくれれば、誰も文句を言わなかった。そもそも、今のようにいろいろなメニューが並ぶテナントなどはなく、「立ち食いそば・うどん」一択の時代でもあった。
「駅そば」の元祖については諸説あり、北海道の函館本線にある長万部駅あるいは森駅、長野県を走る信越本線の軽井沢駅が名乗りをあげている。しかし、残されている記録をひも解くと、北海道の2つの駅は1903(明治36)年の開業で、軽井沢駅は1888(明治21)年に新潟県の直江津駅から路線が延伸され、軽井沢駅との間が結ばれたときに開業しており、“構内営業”の許可は1892(明治25)年に出されたと当時の記録にはある。
この記録は、1958(昭和33年)に当時の国鉄構内営業中央会がまとめた「会員の家業とその沿革」に記されているものだが、軽井沢駅に関する記述には「麺類と生玉子」とも記されていた。これらは、口伝を文字起こししたものに過ぎないが、今となっては唯一の証文に違いない。結果、駅そばの元祖は「軽井沢駅に軍配があがった」ということになろう。
軽井沢駅に併設される駅そば店には、「駅そば発祥の地、軽井沢駅」と書かれた額が飾られている。駅そばの創業者は、軽井沢駅前にあった油屋旅館(現在は軽井沢町追分で営業)である。現在、軽井沢駅にある駅そば店は、1986(昭和61)年に油屋旅館から営業権を譲り受けた “峠の釜めし”で有名な株式会社荻野屋が、いまなお「おぎのや軽井沢駅売店」に併設する形で継承している。















