1872(明治5)年の鉄道開業以来、日本の鉄道は目覚ましい発展を遂げてきた。明治天皇をはじめ皇室の方々も鉄道を利用し、全国を旅してこられた。旅といえば付きものなのが「食事」である。戦後になって、空路による移動が始まるまでは、陸路か航路しかなかった。半日を越える移動時間中には、“お昼”を召し上がることもあった。いつ頃から、どんな食事を摂られていたのか。現代の観光列車に通じるものがある“お召列車”の食事事情とは、いったいどんなものだったのだろうか。
※トップ画像は、天皇専用の「食堂車」である御料車第9号の室内(御食堂室)。壁面に飾られた色彩豊かな2つの「鷹の刺繍画」(作者不明)は、目を見張るものがある=写真/宮内公文書館蔵
列車で食事の初めては明治天皇と昭憲皇太后
1889(明治22)年に東海道線(当時は東海道鉄道、旧・新橋駅~神戸駅間)が全線開通すると、5時間を超える列車移動が行われるようになった。こうした長時間乗車となってからも、お召列車は昼食の時間ともなれば列車を駅に停車させて、近隣にある豪商の邸宅などで食事を摂ることが慣例となっていた。
では、いつからお召列車の中で食事をするようになったのかというと、その初めては1890(明治23)年10月の明治天皇と昭憲皇太后がお揃いで、茨城県へ向かわれたときだった。この当時はまだ、常磐線は存在しておらず、上野駅を朝8時55分に出発すると東北線で小山駅をめざし、そこから水戸線を経由するルートしかなかった。目的地の水戸駅へ到着したのは午後1時55分で、実に5時間を要した。これは途中の大宮駅(東北線)と岩瀬駅(水戸線)で45分ずつ停車して、延べ90分もの休憩時間を取ったためでもあった。
では、どのタイミングで食事を摂られたかというと、小山駅~岩瀬駅の間を走る車中だった。駅弁発祥の駅といった説もある小山駅であるが、残念ながら駅弁をお召列車に積み込んだ記録はない。車中では、宮内省(当時)が持参した特製弁当を召し上がったとされるが、こちらの献立も記録に残されていない。
この当時、日本の鉄道に食堂車は存在していなかった。これに加え、天皇と皇后は戦前期まで同一の車両には乗車しないというルールがあった。仲良く同じ車内で食事を共にされたと想像してしまうが、そうではなかったようだ。
駅弁の初めては大正天皇
宮内庁の記録文書をさかのぼること1907(明治40)年10月のこと。当時、皇太子だった大正天皇が、お召列車で広島県へ向かう途中の名古屋駅で、駅弁を購入した記録が残されている。この時、東宮輔導(皇太子の教育係)だった有栖川宮威仁(ありすがわのみや・たけひと)親王は、「特別扱いをしない」という方針を打ち立て、列車での食事も一般乗客と同じものを食べるようにしていた。
購入した駅弁はというと、「上弁当(60銭)60個」、「中弁当(40銭)7個」、「下弁当(20銭)5個」の計72個だった。大正天皇が召し上がったのは、もちろん上弁当であった。これらは事前に駅弁業者に注文して、名古屋駅に停車するお召列車まで届けさせたわけだが、依頼を受けた駅弁業者はさぞ驚いたことだろう。
当時の駅弁業者は「服部商店」といい、残念ながら1922(大正11)年に廃業しているため、当時の献立などは残されていない。なお現在、名古屋駅を中心に駅弁販売を手がける松浦商店は、この服部商店を引き継いだ料亭「八千久(やちく)」を前身とする。









