大正3年、食堂車が誕生
日本の鉄道で、最初に食堂車が誕生したのは1899(明治32)年のことで、私鉄・山陽鉄道(現在のJR山陽本線)の急行列車に連結されたのが最初だった。列車内で温かい食事が食べられるという発想は、当時、山陽鉄道のライバルとされた瀬戸内海を航行する豪華客船に対抗するためでもあった。1901(明治34)年には、東海道線(新橋駅~神戸駅間)にも食堂車が誕生した。
それから遅れること13年。1914(大正3)年になり、ようやく天皇のお召列車にも食堂車が誕生する。そもそも天皇の移動時間帯は、昼食の時間を避けていたこともあり、食堂車という考えはなかった。ところが、大正御大礼という一大国家行事が行われることになると、食堂車の必要性が問われることになった。
即位礼は古来、天皇の住まう京都御所で行われてきた。ところが、明治元年の東京奠都(てんと)によって、天皇の住まいは京都ではなく、東京となった。当時の旧皇室令では、「即位礼は京都御所で行う」と定められていたため、行事に合わせて東京から京都への大移動が行われるに至った。
当時の鉄道は、東京駅を午前7時に発車しても、最速で名古屋に到着するのは夕方4時であった。このため、途中で食事休憩を取るとなれば、さらに時間を要した。結果、昼食は列車の中でということになり、そこで誕生したのが、移動中でも温かい食事を提供できる天皇専用の食堂車(御料車第9号)だった。
召し上がったメニュー
天皇の御食堂車「御料車第9号」がはじめて使用されたのは、御大礼の前年である1914(大正3年)11月の陸軍特別大演習を御統監のため、大阪府へ向かわれたときだった。行程は、東京を発ち名古屋で1泊して、翌日に大阪入りするというものだった。食堂車での昼食は、1日目が静岡県内の焼津駅~金谷駅間、2日目が滋賀県内の安土駅~草津駅間だった。
食堂車の厨房(調理室)には、当時としては斬新だった氷で冷やす冷蔵庫や、料理用ストーブ(コンロの代わり)が備わっており、冷たい食材を使用したものから温かい料理まで、さまざまなメニューが提供されたといわれる。調理は宮内省(当時)の大膳職が行い、食器類も皇居宮殿から持ち込んだと記録にはある。現在、さいたま市にある鉄道博物館に展示・保存されるお召列車の食堂車(御料車第9号)は、当時の厨房器具は撤去されており、食堂のテーブルなども代用品に置き換わっているため、当時の姿を伺い知ることはできない。
残念ながら、当時、大正天皇が召し上がったメニューは残されていないが、1935(昭和10)年4月に満洲国皇帝溥儀が来日した際に、お召列車の食堂車(国賓用食堂御料車第11号)で召し上がった「午餐のメニュー」が残されている。そこには、鶏清羹(鶏スープ)、車海老添鱚洋揚(車エビ添えキスフライ)、雛鶏酪煎(ひな鶏のクリーム煮)、蔬菜(あおもの菜)、凍菓(アイスクリームなど)、後段(和菓子など)と書かれていた。
大正天皇は、朝はパン食、昼は洋食、夜は和食を召し上がることが多かったといわれる。きっと、食堂車のなかでも、皇帝溥儀と同じような洋食を召し上がっていたのではないだろうか。なお、国賓に対して食堂車で提示されていた食堂車のメニューも、この溥儀の時を最後に廃止された。このメニューは、食堂御料車を語るうえでの、数少ない貴重な資料といえる。





