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江戸時代、芝居から発展した庶民の弁当「幕の内」

似ているようで似ていない「幕の内弁当」と「松花堂弁当」。一体何が違うのか、文化的・歴史的背景を見てみよう。

まずは「幕の内弁当」の成り立ちから。江戸時代、庶民の楽しみだった芝居は、明かり窓からの自然光を舞台照明としていたため、明け六ツである午前6時頃から暮れ七ツ半の午後5時頃まで行われていたのだとか。朝の一番太鼓から始まり一日かけて演じられる芝居は、お客にとって観るだけでなく、食べたり飲んだり、はたまたおしゃべりも楽しい、まさに大娯楽。

「幕の内弁当」は、最初役者や裏方のために作られていたが、次第に観客用にも作られるようになったのだそう。

『神田明神下 みやび』の「特選味合せ」(1080円)。
煮物と玉子焼き、木の葉真丈が入る、創業以来人気の幕の内弁当だ

現在の日本橋人形町にあたる花街・芳町にあった『万久』というお店が作ったのが始まりとされ、笹折に入って一人前100文で売られていた。江戸時代後期の風俗記『守貞謾稿』にこの「幕の内弁当」のことが記されている。円扁平の焼き握り飯10個に玉子焼き、蒲鉾、煮物(コンニャク・焼き豆腐・干瓢・里芋)となっている。

「幕の内弁当」のあの独特のご飯の形はこの握り飯の形態の名残という説もあり、副菜を含めた基本が現代でもそれほど大きく変わっていないというのがなんとも感慨深い。

なお江戸時代には、卵1個はかけそば1杯よりも高価だったため、玉子焼きが入っているのはものすごいご馳走だったのだとか。この話からなんとなく落語の『長屋の花見』を思い出してしまった。噺の中で玉子焼きはたくあん、蒲鉾は大根の薄切りだけれども。

命名については芝居の休憩時間、幕間に食べることからなど諸説あり。この笹折に入った「幕の内弁当」は重宝がられ、次第に芝居だけでなく、病人へのお見舞いや贈答にも用いられるようになっていった。庶民の娯楽から派生して、我々の生活に根ざしたのが「幕の内」なのだ。

昭和時代、茶道の精神を盛り込んだもてなし料理「松花堂」

一方の「松花堂」は蓋付きの四角い箱に入っていて、『吉兆』の創業者である湯木貞一によって考案された。神戸のうなぎ料亭の跡取り息子として生まれた湯木は16歳で家業を継ぐが、24歳の時に松江藩藩主で茶人の松平不昧公の『茶会記』を読み感動。茶懐石を取り入れて料理の品格を高めるべく志を立て、30歳の時に大阪でカウンターのみの割烹料理屋『御鯛茶処 吉兆』を開業した。

契機は昭和8年、湯木が32歳の時に江戸時代の風流人・松花堂昭乗の庵跡での茶会へ参加した際、部屋の片隅に置かれていた中が十字に仕切られた箱に目を留めたこと。懐石の略式のもてなし料理である「点心」を入れ、味はもちろん、寸法(器に合う、食べる人の口に合う)、分量(盛り付けてバランスが良い、食べる人にとってほどよい量)、色彩(見た目の美しさ)を最重視して、工夫を凝らしながら作られていった。

『茶懐石 三友居』(松屋銀座)の「松花堂弁当」(2268円)。
調理法や温度帯の異なる料理が詰められている

4つに区切られているため、それぞれの升の中に小さな器を入れることで、温かいものや冷たいもの、汁気のあるものなど、異なる料理を盛り込むことができるように。茶席で懐石の点心を盛り付けてこの「松花堂」を出したところ、温かい料理は温かく、冷たい料理は冷たいといったおもてなしの心や季節にふわさしい器を使ったこのお弁当はとても好評だったとか。

なお、提供側も器ごとに分業で作ることができ、お弁当型なので配膳が手早くできることなどもメリット。多くの茶会や法事の時の仕出し弁当などとしても使われるようになった。お弁当は携帯用というそれまでの概念を覆し、茶道の精神を盛り込んだもてなし料理へと昇華させたのが「松花堂弁当」だ。

参考文献:『日本のお弁当文化 知恵と美意識の小宇宙』(権代美重子著/法政大学出版局)

※写真や情報は当時の内容ですので、最新の情報とは異なる可能性があります。必ず事前にご確認の上ご利用ください。

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