自衛隊の災害救助派遣を躊躇しなかった剛腕首相とは?
政府にまつわる謎、自治体にまつわる謎、そしてもうひとつ、自衛隊にまつわる謎が続く。
午前10時にようやく出動要請を受けた中部方面総監部は、なぜか姫路に駐屯する第三特科連隊に出動命令を下す。
特科とは砲兵である。総監部は被災地域の伊丹にあり、同じ駐屯地内には第三十六普通科連隊という1000人規模の大歩兵部隊がいるにも拘らず、まず出動したのは姫路の砲兵連隊、わずか250名であった。
途中の道路状況と被災地への距離を考えれば姫路部隊の到着が午後1時になったのは当然といえよう。こうしてさらに3時間が空費され、地震発生からつごう7時間を経過して、おそらく災害派遣の経験も少なく、他の普通科連隊に比べれば訓練も装備も劣るにちがいないわずか250人の砲兵が、焦土と化した神戸に入ったのである。
方面総監部は、なぜ精強な伊丹連隊を投入しなかったのであろうか。
災害の規模はわかっても被災地域の詳細が不明であったから、とりあえず姫路連隊を西から入れ、伊丹連隊を西宮や芦屋〈あしや〉などの東部地域へ、と考えたのであろうか。
しかし新聞を見る限り、伊丹連隊が姫路連隊と同時刻に東部被災地で行動を起こしたという報道はない。唯一、少人数で崩落した伊丹駅舎の救出に向かったという記事があるだけである。
政府の不見識、自治体の躊躇、自衛隊の不適切な用兵――ともあれこの三つ謎がもたらした7時間の空白の間に、老いた父母は絶命し、子供らは泣き叫びながら業火〈ごうか〉に焼かれた。
なすすべもなく父母の名を呼び続け、あるいは生けるわが子の上に押し寄せてくる炎をただ呪うしかなかった親には、憲法も自衛隊法も、選挙も政争もありはしない。そこには生と死しかなかった。謎を合理的に説明して欲しいと思うのは、ひとり私ばかりではなかろう。
豪雨の中に仁王立ちに立って、「市ヶ谷は遅い!」と怒鳴った施設隊長の姿が目にうかぶ。20数年前のあの夜、ほんのささいな鉄砲水に対して自衛隊を動かしたのは、田中角栄内閣であった。
私の最も嫌悪する政治家の実力に思いをいたせば、とまどいを禁じ得ない。
(初出/週刊現代1995年2月4日号)
掲載号をめぐるちょっとした事件
「非常について」が掲載されたとき、編集部内でちょっとした事件があった。
このエッセイが載った週刊現代が発売になった日の朝、週刊現代が属する第一編集局の局長が編集部に怒鳴り込んできた。
「この『勇気凛々ルリの色』の担当は誰だ? なぜ、これを巻頭にしなかったんだ! この原稿のすごさがわかんねえのか!」
局長は、週刊現代編集長や数々の物議を醸した雑誌「PENTHOUSE」の創刊編集長を務めた名物編集者だった。怒りまくる局長に、「そんなこと言ったって、雑誌の編成を決めるのは編集長ですからね」と反論すると、「そんなことはわかってる。これがいい原稿だとわかってるんなら、なぜおまえは、ぜひ巻頭にしてくれと押さなかったんだと言ってるんだよ」と、重ねて怒鳴られた。ぐーの音も出ず、あやまるしかなかった。
とはいえ、連載開始から約4ヵ月、まだ無名に近かった浅田さんのエッセイをそれほど評価してもらったことはうれしくて、あやまりながらにんまりしてしまったことを覚えている。
この阪神・淡路大震災、そして、2011年3月11日に発生した東日本大震災での救助活動によって、自衛隊に対する社会の目が好意的なものに変わったことは確かだろう。昭和40年代、自衛官の息子だった私は、小学校で地元の子たちとケンカになると、「税金泥棒」「無駄飯くらい」を揶揄され、たとえケンカに勝っても心の中はもやもやしていた。振り返ると昔日の感がある。
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。