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東京の下町・門前仲町の『すし三ツ木』店主・三ツ木新吉さんは、2022年で74歳。中学入学と同時に稼業の寿司屋を手伝い始め、板前稼業もかれこれ60年。日本が大阪万国博覧会で沸いていた昭和45(1970)年に、深川不動尊の参道に開店した店は52周年を迎える。昭和の名店と謳われた京橋与志乃の吉祥寺店で厳しく仕込まれた腕は確かだが、親父さんのモットーは気取らないことと下町値段の明朗会計。昔ながらの江戸弁の洒脱な会話が楽しみで店を訪れる常連も多い。そんな親父さんが、寿司の歴史、昭和の板前修業のあれこれから、ネタの旬など、江戸前寿司の楽しみ方を縦横無尽に語りつくします。 第3回は、半世紀を超える板前修業で、ネタを仕込み、シャリを握り、寿司を付け続けてきたなかで気づいた、最も大事なこととは?

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「寿司は握るも食べるも加減が大事」

日本橋から築地、そして豊洲へ

築地市場――2018年に豊洲に移転してしまいましたが、東京の寿司屋にとっては日々の仕入れをする馴染み深い場所でした。

魚河岸(うおがし)を略した河岸(かし)と言うことが多いですが、正式には、東京都中央卸売市場築地市場。日本全国から水産物、青物などが集まり、巨大都市・東京の胃袋を支える、世界最大の売り上げを誇る卸売市場でした。

徳川家康が江戸に幕府を開いたときに、大坂の佃(つくだ)村から漁師を呼び寄せて隅田川河口の島に住まわせ、江戸湾の漁業の特権を与えました。代わりに、日々、新鮮な魚を江戸城に納めさせましたが、そのとき、余った魚を日本橋のたもとにあった鎌倉河岸で売るようになり、それが魚河岸の始まりと言われています。

明治、大正までは魚市場は日本橋にありましたが、関東大震災で壊滅的な被害を受けて、1935年に築地に新市場が開設され、2018年まで83年の長きに渡って東京の胃袋を支え続けてきたわけですから、魚市場と言ったら今でも築地をイメージする方が多いんじゃないでしょうか。

父が魚の仲買(小物屋)をやっていた関係で、幼稚園の頃から魚市場は身近なものでしたが、中学1年で家業の寿司屋を手伝い始めると、寿司屋が休みの日曜は、父にくっついて魚河岸に通うようになりました。小僧っ子の頃から魚に親しみ、見る目を徹底的に仕込まれたことが、板前になって大いに役に立ったことは言うまでもありません。

私が付き合いのある魚屋さんは、鮪(まぐろ)など大きな魚を扱う大物屋が一軒、鯵、コハダなどの小さな魚や貝類を扱う小物屋が数軒。だいたい父と兄の手伝いをしていた頃からの付き合いで、これは築地から豊洲に移転しても変わりません。私は浮気(付き合いのない店からの拾い買い)はしないほうですが、あまりいい加減な仕事が続くようであれば、店を変えることもあります。

「加減」が旨さを引き出す

日本列島は海に囲まれ、全国津々浦々で魚は獲れますから、豊洲市場には、北は北海道から南は九州まで日本中の魚が集まってきます。そうすると、同じ魚でも産地によって日々状態が違います。江戸前と言っても中には泥臭いものもあるし、有名産地のものでも脂の乗りが悪いものもある。仕入れではこれを見分ける目が大事です。また、活きがいいから旨いとは限りません。近海の漁場で獲れたてのものより、遠方からきたものにちゃんと仕事をしてやったほうがより旨くなることもあります。

下町の手頃な価格帯で勝負している寿司屋としては、この見分ける目のあるなしは死活問題になります。店を持ったばかりの頃は、クオリティの高い店が買っていくようないいネタを卸している魚屋に憧れたこともありました。でも、そんな店は値段も一流で、手は出せません。だから、値段は2ランク、3ランク下の魚の中から、いかに旨いものを見つけるかが勝負になります。

そうやって仕入れた魚が届いたら、今度は仕込みです。実は、寿司屋の仕事の中で、この仕込みをやっている間が、私はいちばん好きで楽しいときです。ネタの状態を見て、旨さを引き出すために最善の仕事をしてやる。このときの塩加減、酢加減でネタの味は全然違ってきます。この「加減」がちょうどいいこと――私は「いいくら加減」と言ってます――が、寿司屋の仕事の中ではいちばん重要かもしれません。

開店前の仕込み。大将が一番楽しい時間だ。

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つまんでくずれず、口の中でパラッと...
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