1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第14回は、台湾に生まれ、1970年代から90年代にかけてアジア全域のトップスターとして人気を博し、1995年に亡くなったテレサ・テンに対する特別な思いを語ります。
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落ちぶれた旧友と再会し……
テレサ・テンが死んだ。
フランス人の恋人と休暇を過ごしていたチェンマイのホテルで、気管支喘息の発作を起こしたのだそうだ。まさしく歌姫にふさわしい、ドラマチックで神秘的な最期である。
私が彼女の突然の訃報に接したのは、バブル崩壊で凍結された郊外の造成地であった。石垣と階段と地下駐車場だけが造りつけられた広大な宅地には一軒の家も建っておらず、繁るにまかせた雑草が見渡す限りの曠野(こうや)のように、春の風にそよいでいた。
旧友のNとともに、彼の没落の最大の原因となったその造成地を訪れた。Nは私より二つ年長の、さるバブル景気の折には飛ぶ鳥を落とす勢いの事業家であったが、今では悲しき破産者である。女房子供にも去られ、執拗な債権者の追跡に怯えながら、年の離れた女のアパートに身を寄せているという。もちろんその造成地も、今は人手に渡っている。
Nは夢のような成功と失敗の物語を冗談まじりに語りながら、どうだ、小説のネタになるだろう、と笑った。
「実はな、いま一緒にいる女に男ができてな。3人でメシ食ってきたんだ。俺は身元保証人の、東京のおじさんさ」
若い女に本命の彼氏ができて、逆上するのも大人げないから3人でメシを食う。よくある話だ。しかしNの身の上を考えれば、声を合わせて笑う気にはなれない。
「そこで、別れてやろうにも俺は無一文だから、手切金がわりにこいつをくれてやろうと思うんだが」
と、Nは造成地のただなかに止めたベンツの窓を叩いた。破産者が一千万円もするベンツの560に乗っているというのはつまり、別れた女房か若い女の名義なのであろう。名義変更はできないが現金で買ってくれ、とNは暗に言っているにちがいなかった。
要するに、(だったら俺に譲ってくれよ、向こうだって現金の方がよかろう)、と私が言い出すのを期待しているのである。しかし残念ながら今の私は、ベンツとメザシの見分けもつかなかった極道ではない。
物書きという職業がこれほど金にならぬとはツユ知らず、そうかと言って今さら引き返すわけにもいかず、かつての栄華と比べれば生活はほとんど破産者のそれに等しい。
おそらくNは、女の心変わりにいよいよ進退きわまって、唯一の資産であるベンツを何とか金に換えようと私を訪ねてきたのであろう。それにしてもいったいどういうつもりかは知らんが、夢の跡に誘い出しての商談とは、あまりに悲しい。
造成地の中央に、忘れ去られたようなライラックの巨木が立っており、薄紫色のみごとな花を咲かせていた。販売のあかつきには「リラの丘」という名を付けようと思っていたのだと、Nは笑いながら言った。
ベンツのラジオから、テレサ・テンの訃報が流れたのはその時であった。
なぜ男たちはテレサ・テンに惹かれたのか
へえ、と私たちはボンネットにもたれて煙草をくわえたまま同時に呟き、しばらく押し黙ってしまった。
出身地の台湾や中国本土では、国民的大歌手であるらしい。だが日本では、さほど大スターというわけではない。
なぜ私たちが彼女の死を聞いてしばし呆然とするほどの衝撃を受けたのかというと、つまり彼女は私たちのようなある特定の男たちの間で、熱烈な支持を得ていたのである。
特定の男たちとは、広義では団塊世代のことである。より特定的に言うのなら、たとえば年齢不相応のベンツに乗ったり、借金まみれで土地ころがしをやったり、夜な夜な銀座に出没して大散財をくり返したりした男どものことである。彼らはほとんど例外なく、ベンツのダッシュボードにテレサ・テンのカセットテープを隠し持っていた。
享年42歳。私たちから見るとつれあいの年齢、もしくはすぐ下の妹の年齢である。彼女が日本デビューをしたのはおよそ20年前で、ちょうど同じころ私たちもオイル・ショックの荒波の中にあてどもなく船を漕ぎ出した。
テレサ・テンが同世代のアイドル歌手たちと比べていかにも異質であったのは、彼女が異国人であったせいばかりではない。
彼女は決して青春のラブ・ソングを唄わなかった。ふつうの若者たちの感覚とは遠くかけ離れた、「男につくす女の歌」ばかりを唄い続けた。それがまた、温かでやさしい風貌や、とらえどころのない茫洋(ぼうよう)とした雰囲気や、透明な歌声に良く似合った。
私たちはキャンディーズに黄色い声援を送ることもなく、山口百恵に血道をあげることもなく、どこかふつうではないテレサ・テンの歌をこよなく愛した。
たぶん彼女の魅力は、悪いやつでなければわかるまい。たとえて言うのなら、若い時分にさんざおもちゃにしてどこぞの裏路地にほっぽらかしてきた女。少し年が行ってからは、ズバリ別れた女房。
すったもんだの一日をおえて、きょうも何とか無事だったと車に乗りこみ、カセットを入れる。そんな時の彼女の透明な歌声は、ひとしお身にしみた。テレサ・テンは私たちにとって、決して口には出せぬ「良心」そのものだった。
「へえ……死んじまったか」
Nはしみじみと呟いた。まるで別れた女房の死を聞いたように、Nはうなだれた。
「時の流れに身をまかせ、あなたの色に染められ……か」
ニュースに続いて流れた歌に、荒れすさんだ濁(だ)み声を合わせれば、歌詞はいよいよ身に応えた。
香港やシンガポールでは押しも押されもせぬ大スターであったという。中国の天安門事件の際には、民主化を訴える学生たちを支援して注目を集めたという。本土での熱烈な人気にもかかわらず、「退廃的」という理由で演奏禁止になったこともあるという。
そんな海の向こうでの活躍ぶりも、何となく別れた女の噂のように、いやでも耳に入ってきた。
「だからお願い、そばに置いてね、今はあなたしか愛せない……か」
Nはしみじみと唄った。何十人もの社員を抱え、たまに会うたびに想像もつかないような金額の儲け話を口にしていたころの面影はどこにもなかった。
そこにいるのは、わずかの間にめっきりと白髪の増え、脂じみたメガネをかしげ、よれよれのバーバリィの襟を立てた45歳の男だった。
私はNの遠回しな申し出に対して、長い交友の信義を裏切らぬようなうまい言いわけをしなければならなかった。
小説家などというと聞こえはいいけれど、実際の収入はお盛んだった一昔前の何分の一かしかないんだよ、というようなことを、私はなるたけ誤解を受けぬように説明した。
まったくその通りなのである。現実の繁栄と子供のころからの夢とを秤にかけたら、自然そういう結果になった。
だが私の説明が説得力に欠けていることは言うまでもない。小説を書いているだの、本当は小説家になりたいだのなどという話は、口がさけても言えなかったし、仮に言ったところで真に受ける仲間は誰もいなかっただろう。
Nは憮然として言った。
「要するにおまえも、ヤキが回っちまったってことだな」
「まあ、そういうこった」
私たちの商談は決裂した。メシでも食って帰ろうとベンツに乗り、当然のようにテレサ・テンのカセットを入れた。
「だからお願い、そばに置いてね……か」
ベンツは荒寥(こうりょう)とした造成地を去った。何となく振り返ると「リラの丘」のシンボルになるはずだったライラックの巨木が、紫色の花をたわわに咲かせていた。
テレサ・テンが死んだ。
彼女は私たち悪いやつらにとって、まさしくもうひとりのマザー・テレサ、そしてもうひとりの鄧(テン)だった。
(初出/週刊現代1995年5月20日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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