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母といっしょに食べた思い出の逸品


ぼくは洋食屋に置き去りにされた子供だ。
「なにか美味しいものを食べにいきましょう。タクはなにを食べたい?」
 気丈にも母は悲しい笑みを浮かべた。目の下には赤黒い痣があり、唇から血が流れた。母を殴りつけた父は家を出て行った。泣き腫らした母に手を引かれ、暗くて寒い夜道をとぼとぼ歩いた。
太陽が隠れてしまった暗い街のなかで、その店は淡い光を放っていた。
母とぼくは街角にぽつんと佇む一軒の洋食屋さんにたどりついた。
「オムライスをひとつ」
その場所が「ようしょくやさん」という所だと、料理を待つあいだに知った。
キッチンにいたのは、やさしそうな白髪のおじいさんだった。
黒いフライパンはつやつや光り、オレンジ色のお米が踊った。
白いお皿にオレンジ色のお米が乗っかり、黄色い卵がやさしく包み込む。
焦げ茶色のどろっとしたソースがかかった、その食べ物の名はオムライス。
最後に、母といっしょに食べた思い出の逸品。

(中略)

キッチンを見渡せるカウンターに座ったぼくの足は地面に届きもしなかった。
 銀色のスプーンを持たされ、おそるおそる食器に手を近づける。
 しんちょうに、しんちょうに、音をたてないように気をつけて、焦げ茶色の海に浮かぶオムライスをすくったはずだった。
 かちゃん……。
思わず、心がびっくりして飛び跳ねてしまうような音がした。
ぼくは「しょくじ」の時間がこわくて、しかたがなかった。
お箸やスプーン、フォークを握ると、じんわり汗がふきだしてしまう。
父は「しょくじのまなー」にきびしい人で、うるさい音をたてると、すぐに殴られた。

 (中略)

「しょくじ」の時間は、いつだって緊張する。怖くて、ぷるぷる手が震える。
だからこんどこそ、しんちょうに、しんちょうに、ぜったいに音をたてないように気をつけて、焦げ茶色の海に浮かぶオムライスをすくった。
無事に銀色のスプーンに乗せ、ゆっくり、ゆっくり口に運ぶ。
ひと口食べた途端、ぼくは一瞬にして怖い父を忘れた。
かちゃかちゃ音が鳴ってしまうのも気にせず、夢中で食べた。
やさしい卵の味、すこし苦いソースの味、ほんのり甘くて、しっとりしたお米の味。
いろいろな味が口の中で合わさって、そのときばかりは「しょくじ」が喜びだった。
半分ぐらい食べて、おなかがいっぱいになってしまったけれど、やさしいおじいさんが作ってくれたオムライスはとてつもなく美味しかった。

(中略)

「ママ、これからパパと話してくるから。いい、ここで少しだけ待っていてね」
 それが母と交わした最後の言葉だった。
 まだ幼かったぼくは、母が迎えに来てくれるのを疑いもしなかった。
 だけど、母はぼくを置き去りにした。
 十年以上も前のあの日のことを振り返るたび、心がちくりと痛む。
 母はぼくを捨てたのではなく、逃がしたのだと思うことにした。
 大嫌いだった「しょくじ」の時間が決して捨てたものではないと思わせてくれたのは、あの日食べたオムライスのおかげだ。
 ぼくは洋食屋さんのオムライスに救われた。
五歳になったかならぬかで母の手を離れ、児童養護施設で育った。
ぼくを養子として引き取りたいと申し出てくれた里親候補も何人かいたけれど、試しにいっしょに暮らしてみると、養子の件は白紙に戻った。
「しょくじ」の時間になるたびに取り乱すぼくを大人たちは受け入れてはくれなかった。
食事が大嫌いなぼくがなんとか生き延びられたのは、あの日に食べたオムライスの幸せな味をいつまでも忘れずにいたからだ。

洋食屋さんのおじいさんには恩しかない。

言葉だけで、どこまでオムライスの美味しさやら郷愁やらを表現できたのか分かりませんが、本文にご興味のある方はご一読くださいませ。受賞作は無料でお読みいただけます。

『絶望オムライス』 
https://ncode.syosetu.com/n7537gz/

読後、「あー、美味しいオムライスが食べたいな」などと思ってもらえたら嬉しいです。

オムライスという幸福な食べ物に、どうして「絶望」などと冠したのか。

その心は、小説をお読みいただければ分かってもらえると思います。

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おとなの週末Web編集部
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