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悪魔の誘いに乗り、調子の乗った末

やがて船は600人の招待客を乗せて桟橋を離れた。飲めや唄えの船上パーティのあとには、数々のショーや催し物が用意されており、私は我を忘れてはしゃいだ。

そこまでは良かったのである。

ひと通り騒ぎおえて、そろそろ外海に出るころだし、部屋に戻って寝るべえと思ったころ、麻雀に誘われた。

言い出しっぺは匿名希望文芸評論家C木N雄氏であり、他のメンツは版元音羽屋の番頭T氏と駿河屋の番頭Y氏であった。

私自身の名誉のために言っておくと、断わるわけには行かぬ義理メンツであったC木氏には文庫本の解説を依頼しており、T氏は連載小説の担当編集者であり、Y氏の駿河屋からは1ヵ月後に第1短篇集が上梓される。

船上麻雀。考えただけで前ゲロが出そうになった。

たしかに義理はある。しかし義理で卓を囲んだのかというと実はマッカな噓で、内心これはおいしいと考えたのである。ついこの間まで度胸千両の鉄火麻雀をブッてきた私が、上品な業界で麻雀を覚えた彼らに負けることなど、毛ほどもあるまいと思った。

こうして翌る朝までえんえんと続く地獄が始まったのであった。

かつて何度かの対戦から、小説家はみな麻雀がうまいということは知っていた。日ごろ彼らと卓を囲んでいる評論家や編集者も、たぶん同レベルであろうという想像はつく。打ち始めてすぐに、どれも相当の打ち手であるとわかった。油断はならぬ。

事前に飲んだ酔い止め薬の効果もあって、気分はすこぶるよろしかった。しかし、夜も更けて船が外海に出ると、おそろしいことになった。巨大なゆりかごのようにゆったりと、卓が揺れ始めたのである。

それでも私には、(今日は大丈夫だ)という自信があった。むしろひそかに、(誰か酔わねえかな)と思った。下戸の私は1滴も酒を飲んではおらず、他の3人はみなすでに多少の酩酊をしている。

そこで一計を案じた。麻雀を打ちながら、「あ、吐きそうだ」「気持わるいよー」「ゲロ、出る」とか、さかんに言って、彼らのゲロを誘導しようと試みたのである。このように口で麻雀を打つのは、悪いバクチを打ってきた私の得意ワザであった。

作戦は効を奏した。対面(トイメン)に座っていたC木氏がまんまと私の言魂(ことだま)に冒され、ゲロッたのである。

「メン類はヤバいんだよな。あれ、そのまま出るでしょ。まるごと」

と、この殺し文句が効いた。私はパーティの席上、C木氏がヤキソバをたらふく食っていた光景を記憶していたのである。

「ち、ちょっと、ごめん」

 と、C木氏はトイレに走った。フフ、と私はほくそ笑んだ。他の2人も顔色が悪い。勝ったも同然と私は思った。

ところが、まずいことになった。「ウイッ」とよろめきながらトイレから戻ってきたC木氏は、何とも名状しがたい、酸っぱい匂いを漂わせていたのである。風向きのかげんでその残臭はモロに私の胸をうがった。とたんに私の咽(のど)に、前ゲロがこみ上げてきた。

「ヤキソバ、出ちゃった」

と、何ら悪意はなく、C木氏は言った。殺し文句であった。私自身、ヤキソバをしこたま食っていたのである。

「ち、ちょっと、ごめん」

私はたまらずにトイレへと走った。

その夜、船が伊豆大島を1周して晴海埠頭に接岸するまでの生地獄は、とうてい筆舌につくしがたい。

ふしぎなことに、ゲロッたとたんにC木氏はてんで正気になり、他の2人も酔うほどに船の揺れを忘れ、私1人が吐きながら身ぐるみ剝がれるというこの世の地獄を体験したのであった。

誰に何と言われようと、もう二度と船には乗らない。

たまさかの平穏におのれの正体を見誤ってはならない。他人への悪意は、天に向かって唾するようなものだ。

ゲロはさまざまのことを私に教えてくれた。

(初出/週刊現代1997年4月19日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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