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決して起こしてはならない

そんなことを考えつつことほぎの食膳に向かえば、ちっともめでたい気はしない。

第一、わが家の正月にはおとそを交す習慣がない。恵まれぬ晩咲きであったので、ついぞ酒を覚えるいとまがなかった。そこで恒例に従い、家族はウーロン茶で乾杯をする。いずれの日かわが家にやってくる婿は不幸だと考える。

私は一見して酒豪に見えるらしく、また実際に酒席ではウーロン茶を牛飲しつつ馬鹿騒ぎをする悪癖があるので、つきあいの浅い出版社はしばしば歳暮に酒を贈ってくる。これらはすべからく隣家に住む棟梁に回る。

昨年はあろうことか講談社から酒がきた。老朽化した屋根庇の普請をタダでやってもらった手前、棟梁に回そうかと思ったが、包みをあけてみたら、至極上等なヘネシーであったのでやめた。

飾っておいて、執念深い原稿取りに分かち与え、眠らせてしまうという手がある。あるいは担当者を替えろ、という因縁づけにも利用できるであろう。

意識朦朧のまま雑煮を食いながら、そんなことを考えた。1週間ぶりの風呂に入り、こざっぱりと着替えをし、さて続きにかかるかと思いつつ、不覚にもテレビの前で昏睡してしまった。

いつでも、どこでも、時には誰とでも自在に眠り、かつ自在に目覚めるのは私の特技である。

この点についてもわが家にはふしぎな習慣がある。時と場所、その他の状況のいかんに拘らず、寝ている家長を起こしてはならず、起きている家長を寝かそうとしてはならないのである。

すなわち「体に毒だから」とか「明日があるから」といういたわりの言葉は禁句であり、突如として昏睡している家長を発見した者は、家じゅうのどこに。どういう格好で寝ていようと、すみやかに枕を差しこみ、毛布をかけ、猫を抱かせる。唯一の例外は生命の危険がある入浴中の場合だけで、ともかく殺人事件の現場保存のごとく、いっさい手を触れたり声をかけたりしてはならないのである。

奇習とはいえ家長の厳命である。老母は因果だねえと溜息をつき、娘はみじめすぎると嘆き、家人はまたしてもウンザリとする。だが、かつて野に臥し、草に寝た元自衛官にとって、この惰眠はけっこう快楽なのである。

たとえば夏場の廊下とか玄関の上りがまちとか、冬ならホットカーペット、コタツ、長椅子、時には食卓や便座のまどろみ、いずれも異なった快感があり、夢見もまたちがう。

そんなわけであるから、元旦における居間のテレビの前にはたちまち枕と毛布が届けられ、背と胸には猫が入れられた。

家長による新年の奇妙な挨拶

どのくらい時間が経ったのか、快い「美しき青きドナウ」で目覚めた。枕元のテレビには、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの衛星中継が映し出されていた。

元旦に家族そろってこれを見るのは、ナゼだか悪い時代からの習慣なのである。

「あ、いかん寝すごした。おーい、やってるぞー!」

ボリュームを上げると、居間のあちこちで適当に眠りこけていた家族がムックリと起き上がった。されはついに家長の奇習が伝染したかとあわてたが、考えてみれば正月ならどこの家でも似たようなものであろう。

今年のニューイヤー・コンサートは白眉であった。家族はウィーン楽友協会ホールの盛装の観客とともに。手拍子を打った。

放送終了後、ようやくパッチリと目覚めた私は、家長としてどうしてもそれだけは言わねばならないことを言った。

「来年は、ウィーンへ行ってナマで聴こうな」

この言葉も、一種の奇習であろう。

喧嘩手形の時代からずっと、まるで呪文のように私はそう言い続けている。

ニューイヤー・コンサートのラストは必ず華やかな「ラデツキー行進曲」で締めくくられる。つまりわが家ではそのあとに、「来年はウィーンで――」という、永遠に実現するはずのない家長の挨拶が続くのである。

しかしどういうわけかこの瞬間に限って、糟糠の家人はウンザリとはせず、高校受験を控えた娘は嘆こうとはせず、身障者の老母も因果な溜息をつこうとはしない。

私は年の明けたのも知らずに仕事をする本当の理由は、たぶんこれである。

(初出/週刊現代1995年1月21日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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