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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第41回。作家にとって最初の文学賞受賞作となった名作のタイトルの裏に秘められたアナザーストーリー。鬱屈した青春の日々の中に、フッときらめく淡い恋の記憶……。

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「訣別について」

マドンナとのデートにこめた思い

30年近くも前の、その冬の一日(いちじつ)のことを私は今も克明に記憶している。

15の齢に家出をしてからずっときままなアパート暮らしで、勉強はあまりせず、文学三昧の4年間を過ごした。出版社への執拗な原稿持ち込みと新人賞への応募が仕事のようなものであった。

そんなわけだから、当然大学は浪人した。今から思えば、大学に行くことにさほどの執着はなかったのであろう。ひたすら小説家になることばかりを考えていた。

秋の終わりに三島由紀夫が死んで、その小説家という職業がわからなくなった。で、翌年の受験に第一志望校を落ちたら、自衛隊に入ろうと心に決めた。

安直といえば安直、明晰といえば明晰である。つまり一流大学で「小説」のソフトを学ぶべきか、自衛隊に行って「小説家」のハードを解明すべきかという選択で、それはおそらく人知の及ばざるところに存在する文学の神様が、受験結果で示してくれるのであろうなどと考えた。

ということは、その時点でほとんど大学進学の意志はなくなっていたのかもしれない。

年が明けて、受験を目前に控えたある日、私は思い立って高校時代の同級生に電話をした。仮にM子としておく。

彼女とは友人と呼べるほどの交際すらなかった。在学中も何度か言葉をかわしたという程度である。むろん恋心などなかった。ではなぜ1年ぶりに連絡をしたかというと、M子が高校のマドンナであったからである。

多くの友人たちが彼女に恋をしており、そして彼女は私と同様に浪人中であった。

私の手元にはバイト先で貰った映画の切符があり、さて誰と行こうかと考えたときに、ふとM子を思いついたのである。

彼女はたぶん、深窓の令嬢であったと思う。少なくとも私は彼女にそういうイメージを持っていた。恋心はなかったが、長いことアパートで自活していた私は、そんなM子に対して少なからず憧れと嫉妬を抱いていたのだろう。

1年ぶりの思いがけぬ級友からの電話に、彼女はとまどった。どういうわけか私は熱心に誘った。後にも先にも、あんなふうに女を誘ったためしはない。

新宿で待ち合わせ、地下鉄に乗って銀座に行った。丸ノ内線のドアに並んで立ち、私はガラスに映るM子の姿をあかず眺めた。白いベレー帽を冠り、白いタートルネックのセーターに、チェックのミニスカートをはいていた。コートの色は忘れた。

私はブルーのコンテンポラリィのスーツを着ていた。コートは持っていなかった。

みゆき通りの「ジュリアン」という喫茶店の2階で私はコーヒーを注文し、M子はミルクティーを飲んだ。サンドイッチを昼食がわりにつまんだ。席につくとき、スカートが短いから階段のそばはいやだと彼女は言った。気配りができなかったことを、私は内心恥じた。

私はその喫茶店が好きだった。「ジュリアン」という店の名は、たぶん『赤と黒』のジュリアン・ソレルにちなむのであろうと勝手に決めていた。つまりその喫茶店が好きなのではなく、スタンダールが好きだったのだ。

日比谷で見た映画は『1000日のアン』というタイトルであったが、内容は記憶していない。私はずっと、かたわらに座るM子を意識し続けていた。冷静に、私の青春の象徴的なオブジェのひとつを、胸の奥深くに刻みつけようとしていた。

新宿に戻る地下鉄の中で、私はまったく唐突に妙な欲望を抱いた。妙な欲望といってもいわゆる性欲ではない。彼女に何かを買ってやりたいと思ったのである。受験前の貴重な一日を私のために費してくれた、素直なお礼のつもりだったのかもしれない。あるいは、私には分不相応な彼女に物を買い与えることで、自尊心を保とうとしたのかもしれない。

申し出を拒否するM子を西口のデパートに連れこんでブーツを一足プレゼントした。18歳の少年にとってはずいぶん高価な値段だったと思う。たしか、競馬で儲もうかったというようなことを言った。もちろん噓である。そんな理由でもつけなければ、彼女は私の申し出を受けてくれないだろうと思った。

それから行きつけのスナックでジン・ライムを飲んだ。ギターを弾いてラブ・ソングを唄った。

そのスナックから私のアパートは近く、新宿駅への帰り道には何軒かのホテルもあった。しかし毛ほどもそんな気持ちは起きなかった。自分でもふしぎに思ったほど、その日の私は毅然としていた。

M子とは山手線のホームで別れた。がんばろうね、と彼女は言った。握手をかわしたとき、私の胸は激しく痛んだ。M子を欺(だま)しているような気がしてならなかった。

私の中には何ら撞着はなかった。だがそれを彼女に説明することはできなかった。

大学に行かずに自衛隊に入ることは、私を囲繞(いにょう)するすべての常識との訣別であった。愛したのは君ではなくジュリアン・ソレルなのだよと──小説ならばそう書いたであろうけれど。

電車が行ってしまったあとで、私はベンチに座って煙草を喫った。大事な儀式をおえたあとのように、しばらくぼんやりとしていた。

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炉にくべてしまったお礼の品...
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おとなの週末Web編集部 今井
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