炉にくべてしまったお礼の品
M子の母という人から自衛隊の事務室に電話が入ったのはだいぶ日が経ってからだ。半年間の新隊員教育をおえて連隊に配属されてからだから、その長い空白はいまだに謎である。
娘が高価なプレゼントをいただいて申しわけないと、M子の母は言った。私はとっさに、いえどうせアブク銭ですから、とひどく下品な言いわけをした。もちろんこのときも、それ以上の説明をすることは不可能であった。
しばらくして、M子の母からデパートの包装紙にくるまれたセーターが送られてきた。私の身勝手で母親にまで気を遣わせてしまったと思った。M子が親からあらぬ詮索をされたであろうことも想像した。
そのセーターはどうしても着る気になれず、駐屯地の焼却場に持って行って、箱ごと炉にくべてしまった。私は悲しい気分にならぬ得な性格なのだけれど、さすがにそのときばかりは応えた。
すべてと訣別したあとに、思いがけず贈られたセーターであった。何で俺はこんなことをするのだろうと思ったとたん、ものすごく悲しい気分になって、炉の前で膝を抱えたまま泣いてしまった。
2年間、私は理屈ぬきの兵隊であった。三島さんは恩師だから悪く言いたくはないが、少なくとも物事の順序は私の方が正しいという自信はある。
自分は小説家になるために自衛隊に入ったのだから、命ぜられたことは何ひとつとしておろそかにしてはならないと思い続けていた。平和な軍隊の中で、私はひとりぼっちの戦をした。
M子のことはそれきり忘れた。
思いがけぬ再会。そして……
陸士長になって、営内班でも殴られる側から殴る側に回ったころであったと思う。
休暇か外出かでぶらりと出かけた新宿の地下道で、私は思いもよらずにM子と出くわした。本人と遭遇したのではない。M子が地下鉄のポスターのモデルになっていたのだ。
人ごみの中に佇(たたず)んで、私は美しい微笑をあかず眺めた。あの冬の日、丸ノ内線の暗いガラスに映っていた彼女の姿が思い出された。
もしかしたらM子は、言うにつくせぬ私の心情をすべて理解していたのではないかと思った。少なくともそう思うことにした。
訣別のホームで彼女は、がんばろうねと言ってくれた。たぶんそれは、世界中の人々が彼女の口を借りてそう言ってくれたのだと思う。私が私の未来のためにいっとき捨てねばならなかった世界を代表して、そのシンボルであるM子は固く私の掌を握ってくれたのであろう。
小説家と呼ばれるようになるまでには、それから20年かかった。
華々しいデビューではなかったので、しばらくは自分の思い通りの小説を書くことはできなかった。だから初めて自分らしい、納得の行く作品を書いたとき、ずっと胸の中に温めていたタイトルをつけた。
吉川英治文学新人賞をいただいた『地下鉄(メトロ)に乗って』は、私が新宿の地下道であかず眺めたポスターの、キャッチ・コピーである。
やさしく微笑みかけるM子の胸前に、「メトロに乗って」と書かれていた。
(初出/週刊現代1998年3 月14日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。