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かけがえのない親友を失った夜

肌寒い春の夜のことであったと思う。Kは私の翻意を促すために、下宿を訪ねてくれた。学生服を着ていた。

青梅街道に面したスナックでコーヒーを飲みながら、私はまったく唐突に、「小説家になる」と言った。

たしか、こんな応酬があったと思う。

「そんなこと、簡単に言うなよ。人生を変える理由にはならないだろう」

「いや、僕は小説家になる」

「今の環境が悪いはずはない」

「勉強ばかりしていたら本が読めない。小説が書けない」

「それは言いわけだ。小説家になるにしても、学問は必要だと思う」

「ともかく、僕は小説家になる。それしか考えていない」

「簡単に言うなって。そんな考えで小説家になれるのなら、日本じゅう作家だらけだ」

「僕はちがう。どうしても小説家になる」

「もしなれなかったらどうするんだよ。エリートコースを棒に振って、とり返しがつかないじゃないか」

「小説家になる。もしなれなかったら、死んでやる」

何時間も言い争ったあとで、Kをバス停まで送った。別れぎわに、Kは私の手を握ってひとこと、「がんばれよ」と言ってくれた。

こうして思い返してみても、そのときのKの説得は正論である。まるで父が子を諭すほど、聡明で明晰で、あやまりはひとつもなかった。

一方の私の主張は、たしかに彼のなじった通り、言いわけに過ぎなかった。どうしても小説家になりたかったことはたしかだったが、それ以上に学問がいやでたまらなかった。

かけがえのない親友を、私はその夜、失った。

なかば頭のおかしくなった、文学ぐるいの友人を諭すために、15歳のKは来てくれたのだった。彼の友情はあまりにまばゆく、バスが行ってしまってから、私は夜更けの道を泣きながら帰った。

下宿に戻って、スタンダールの『パルムの僧院』を読んだ。この感動をわかち合う友はもういないのだと思ったとき、また涙が出た。

Kはその後、慶応大学経済学部に進み、三井物産に入社した。

私は大学受験に2度失敗し、自衛隊に入り、さまざまの紆余曲折を経て、ようやく小説家になった。初めて原稿が活字になったのは35歳、単行本の上梓は40歳、そして45歳の夏にやっと、直木賞をいただいた。

Kの息子は父親の母校に通っている。あのころの私たちと同じ年ごろである。その息子が、父親より先に私の正体に気付き、新聞広告でサイン会の日時を知って、ニューヨーク在住の父に連絡をしたのだった。

Kははるばるニューヨークから、私のサイン会にやってきてくれた。そして炎天下の長蛇の行列に息子と一緒に並んで、私の前に『鉄道員(ぽっぽや)』を置いてくれた。

「セガレの名前を書いてやってくれよ」

と、Kは言った。

Kにとって、世に出た旧友は誇りであるのかもしれない。しかし私は、彼の息子に声をかけることをためらった。

30年前のKの言葉のいちいちが思い出されたからだった。

たとえ結果がこうであれ、あの日の私の主張は詭弁(きべん)であった。だからこの結果は、少くともKと私との関係においては、恥じこそすれ誇るべきものではない。

私は君のおとうさんの友情を、あの夜裏切ったのだよ。30年ずっとそんなことばかりしてきたから小説家になることができたのだよ、と私は言いたかった。

秋からハーバードのビジネス・スクールに通うのだと、別れぎわにKは言った。

それから1週間ほどして、エア・メールが届いた。全文を紹介したいほどだが、まさかそうもいくまい。

帰りの飛行機の中で、『鉄道員』を読んだとKは書いていた。読むほどに胸が熱くなって、泣いてしまった、と。

『鉄道員』は巷間(こうかん)言われるところの「お涙小説」にはちがいないが、ニューヨークに戻る機内でKの流した涙は、少々意味が異なるだろう。

彼はきっと、30年前の肌寒い春の夜を、バス停に取り残されたまま闇の中に遠ざかって行く親友の姿を、思い出してくれたにちがいない。

あの晩、Kはバスのリア・ウインドに顔を寄せて、いつまでも手を振っていてくれた。

朋有り遠方より来たる、また楽しからずや。

漫然と読み過ごしてきた孔子の言葉が、45歳の胸を被う。

学ばず、時に之れを習うこともなかった私に、続く一節を語る資格はないのかもしれない。

わざわざ訪ねてきてくれた君とゆっくり話す間もなかったけれど、近いうちに必ずこちらから伺う。

しみじみ思ったよ。君は本当に、いいやつだな。

(初出/週刊現代1997年10月18日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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