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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第50回。先日、元サッカー日本代表の本田圭佑が、日本の治安の悪化を嘆いていたが、今から25年前、作家は同じ問題を憂い、ある提言をしていた。

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「仁義について」

なぜ中学生が人を殺めるに至ったか

私が子供のころ、全国の小中学校を中心に「刃物を持たない運動」というものがあった。同世代の読者の多くはご記憶であろうと思う。

おそらく契機となるような事件が、何かしら起こったのであろう。ともかくある朝、刃物と名の付くものはいっさい持ってはならない、という通達がなされた。

小学校の高学年であった私は、この指導にたいそう反撥した。理由は単純で、授業中に鉛筆を削るのが好きだっただけである。

私の取柄といえば手先が器用なことと、口が達者なことであった。で、おおむね以下のような意見を開陳して先生を困らせた。

  • ぼくはボン・ナイフ(当時の子供が持っていた五円の簡易ナイフ)しか持っていないので、これを禁止されたら鉛筆が削れません。ナイフで用が足りるのに、高い鉛筆削り器を買うのは贅沢(ぜいたく)だと思います。

②家庭科では包丁を持ち、図工の時間には彫刻刀を使っているのに、どうしてボン・ナイフはいけないのですか。

③家ではお手伝いをするために、包丁を持ったりハサミを使ったりしていますが、つまりそういうお手伝いもしてはならないのですか。

こういう結構な子供がそののち学園闘争などには目もくれず、日がな麻雀を打っていたのはまさに知的退行というべきであろう。

私の反撥は鉛筆削りの趣味を取り上げられることに対するものであったが、その一方、幼稚な制約に対する反抗でもあった。

その後「刃物を持たない運動」がどうなったかは知らぬが、どういうわけか通達を受けたときのこの反撥だけはありありと覚えている。

そういえば時を同じうして、「小さな親切運動」というものもあった。要するにお年寄りはいたわろうとか、女の子にはやさしくしようとか、下級生の面倒を見ようとか、日常のちょっとした親切を心がけようという運動である。

私の場合、極めて威勢のいい祖父母に張り倒されながら育ったので、そもそも「お年寄りをいたわる」という意味がてんでわからなかった。また、当時から46歳の今日に至るまでセクハラは生き甲斐であり、目下に対しては常にいじめっ子である。つまり、この「小さな親切運動」は私のアイデンティティーに対する全世界的拒否権の発動のようなものであった。

かくて私はこの二つの運動の結果、毎日廊下に立たされる羽目になったのである。

廊下に立たされると、ヒマだから哲学をする。今も昔も、こういうとき決して反省はしないのである。ただひたすら、廊下に立ちつくすわが存在の理由について考える。どうしても自分が立たされるほどのことをしているとは思えなかった。

たぶん、私はまちがってはいなかった。教育の現場が確たる指針を失い、場当たりの指導しか思いつかぬ混迷の時代だったのであろう。

思うに、中学生がナイフで教師を殺害するなどという怖ろしい事件は、突然降って湧いたわけではあるまい。実は30何年も前のあのころに、すでにその布石は打たれていたのではなかろうか。

カラオケ・ルームで屈強な大学生が、か弱い女性を輪姦するなどというおぞましい事件も、実は知れ切った結果なのではなかろうか、という気がしてならない。

刃物で他人を傷つけたいという衝動は、男子中学生の心理としてはあながち不自然なものではないし、健康な青年ならば強姦願望を潜在的に持つのは、むしろ自然であろう。ではなぜそうした欲望が現実の事件として起きにくいのかというと、むろん理性とか良識とかがコントロールしているからである。この理性や良識がいかにして失われたかというところに、問題のすべてはあるように思う。

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おとなの週末Web編集部 今井
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