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治安の良さの根底にあった二つの精神

かつてわが国には儒教的モラルというものがあり、非常にわかりやすい形で青少年の訓育がなされていた。

まず、「五徳」という五つの徳目がある。「温」「良」「恭」「倹」「譲」。

これらは読んで字のごとくわかりやすい。あえて教えられなくても、こういう人格を備えねばならぬということは誰だってわかっている。できるかできないかはともかく、わかってはいるのである。儒教的教育が否定された戦後にも、この五徳は学校でも家庭でも生きている。

一方、「五常」という五つの常識がある。「仁」「義」「礼」「智」「信」。

問題はこちらである。いくぶん概念的であるので教育の場では解説を要し、「修身」や「道徳」の学習時間がなくなったとたん、これらのモラルは少年たちの心から消えてしまった。

それでも「礼」と「智」と「信」は社会生活と密着しているので、多少形を変えてでも生き続けている。いや形を変えながらむしろ偏重されていると言ってもよい。

たとえば入社したばかりの新入社員を見てもわかる通り、優秀な人材はみな礼儀正しく、知性に富み、約束ごとは守る。たしかに実務上はそれで通用するのである。これらのモラルは元来が儒教固有のものではなく、西洋的もしくはアメリカ的モラルの中にも共通して存在したので、多少ニュアンスは変わっても存続し、かつ偏重されたのだと思われる。

少年たちの心から消えてしまったのは「仁」と「義」の精神であろう。

「仁」は他者に対する思いやり、いつくしみの心のことであって、これは高学歴社会の過当競争の中で死語と化した。おそらく「仁」は戦後自由主義と相容れなかったのであろう。今日では「福祉」とか「ボランティア」という形で社会に組み入れるほかはなくなってしまった。孟子の口癖を借りればまさに、「哀しい哉(かな)」である。

「義」もまた、法治国家の名のもとに死語と化した。法律を犯せば悪いやつで、法に触れなければ悪いことでも悪くはないのである。

「義民」や「義賊」の存在を子供らは知らず、佐倉宗吾も国定忠治の名も、青少年は知らぬのであろう。「哀しい哉」である。

かの孟子は、「仁は人の心なり、義は人の路なり」と説いた。

「仁」は人だれしもが持っている人間本来の心であり、「義」は人だれしもが歩み従うべき正道である、というほどの意味である。

また、「仁は人の安宅(あんたく)なり、義は人の正路なり」とも説いた。

「仁」は人間にとって最も安らかな居場所なのである。

仁の精神を制度化し、義の精神を法律に委(ゆだ)ねる愚を、私たちはこの50年間にわたって続けてきたのではあるまいか。その愚行はすでに30数年前、「刃物を持たない運動」や「小さな親切運動」という形で提示されていたのである。

「仁」と「義」とを知ってさえおれば、少年は男子の本能の赴(おもむ)くままにナイフを持ち歩きこそすれ、決して他人にその刃を向けることはなかったはずである。

また大学生たちはか弱い女性とともに飲みかつ唄い、性的妄想をたくましうしたとしても、よもや輪姦には及ばなかったはずなのである。

今日までわが国が世界にも珍しいほどの治安のよさを維持してきたのは、儒教世代が社会を牽引していたからであろう。だが、文字通り仁義をわきまえぬ戦後世代にバトンが手渡されれば、このさきどのような世の中になるかは自明である。いくつかの事件はその予兆のような気がしてならない。

「仁」と「義」とは、数々の社会的モラルを人の心のうちに水のごとく湛(たた)える器である。この精神をないがしろにして何を教育しても、個人のためにこそなれ社会にとっては無益であろう。その証拠に、器がないから中学生も大蔵官僚も、同じ罪を犯す。

きわめてわかりやすく、合理的な道徳である儒教教育を復活させることは、決して反動ではないと思う。少なくともかつてそのモラルで社会を築き、今も漢字による学習を続けているわれわれにとっては、何を考えるよりもむしろ早道なのではなかろうか。

(初出/週刊現代1998年2月28日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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