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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第33回。不惑を過ぎた作家が、毛髪と体毛をめぐって初めて老いを意識した日の焦燥感を活写した名作です。

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白髪について

撮影スタッフを驚愕させた事件勃発!

このテーマは、かつて本稿で「ハゲについて」を書いた折、続けて述べる予定であったのだが、コロッと忘れていた。

未読の方はぜひ講談社文庫刊『勇気凜凜ルリの色』第一巻P.131を参照されたい。このようなエッセイ集に大枚704円はバカバカしいとお考えの向きは、立ち読みでもいっこうにかまわない。

子供のころ、「齢をとったらハゲがいいかシラガがいいか」という愚かしい議論を戦わせた記憶がある。

「シラガがいい」という意見が圧倒的であったのは言うまでもない。ごく少数の「ハゲ派」は、自分の父親がハゲていただけのことである。

ハゲが決定的な遺伝であることは子供らの間でもつとに知られていたので、ハゲの子はおのれの運命を正当化するために「ハゲがいい」と言い張ったのであろう。

この議論がなにゆえ愚かしいものであったかというと、理由はときおり新聞広告に登場する私の写真を見ればわかる。要するに私はハゲでシラガなのである。

ハゲとシラガがまったく異種の運命であると信じていた子供らは愚かであった。ハゲそこなった頭周部分がよもやシラガになろうとは予測もしていなかった。

いまわしい記憶によると、ハゲの侵食とほぼ同じ速度で、シラガも増えたのである。しかもごていねいに、ハゲは前方からイッたが、シラガは後方の生えぎわから一気にきた。現在ではその境界も定かではなく、頭頂部にかいがいしく残っている髪がシラガ、というていたらくなのである。

ハゲのシラガは始末が悪い。まず染める気になれない。過日「シラガを目立たなくするムース」を買ってきて、家族に隠れてシラガ染めを行ったところ、あろうことかハゲ頭の皮膚が真黒に染まってしまい、往生した。つまり染める気になれないのと同時に、技術的にも困難なのである。

その後「シラガを目立たなくするムース」はほっぽらかしておいたのであるが、グラビア撮影があるというので、早起きをして再び挑戦をした。ハゲ残りのシラガを一本一本、丹念に染めたのである。

私は手先がおそろしく器用なので、気を入れて実行したところけっこううまく染まった。

何となく「若ハゲ」という感じになり、黒く染まった分だけ髪も多く見えた。鏡を見ながら、快挙であると思った。

とっさにはそうとわからぬ変身であった。事情を知らぬ家人は、「アレ、きょうはどこかちがうわねえ」と言い、私の顔など見飽きているはずの担当編集者ですらも、シラガ染めの秘術には少しも気付かず、「浅田さん、何だか顔色がいいですよ」とか言った。

たまたまカメラマンが神経質な職人気質の人で、屋外での撮影は小一時間を要した。ようやくOKという段になるころ、カメラマンの悩みの種であった空模様がにわかにかき曇り、沛然(はいぜん)たる驟雨(しゅうう)に見舞われた。

スタッフともども家まで駆け戻り、玄関に飛びこんだとたん、カメラマンも編集者も私の顔を見て「ワー!」と言った。

「浅田さん! ど、ど、どうしちゃったんですか!」

ハテどうしたのだろうと洗面所に行き、鏡を見たとたん私も「ワー!」と叫んだ。

「シラガを目立たなくするムース」は水溶性だったのである。鏡ごしに私の醜態を隠し撮りしたカメラマンには、とりあえず回し蹴りをくれたが、フィルムはどうなったのであろう。もしや編集部の晒し物になっていはしないかと思うと、不安である。

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おとなの週末Web編集部 今井
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