浅田次郎の名エッセイ

「勇気凛凛ルリの色」セレクト(52)「取材旅行について」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第52回。作家は、作品の執筆前の構想中、取材に出かけることがある。歴史小説となれば、その舞台となる町や時代背景を丹念に取材する。何故かと言えば、言葉で表現する以上、「あの道具の名前がわからない」といった小さなつまづきで、筆が一行も進まなくなることがあるからだ。

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「取材旅行について」

取材旅行は考える旅である!

矢弾のごとく締切の殺到する月末、二泊三日の行程で取材旅行に出た。

数ヵ月後に連載が開始される「著者初の歴史時代小説」の取材である。

みなさまご存じの通り、顔も体も思想も行動も節操に欠ける私は、当然のごとく書くものにも節度がない。興味のおもむくままに何でも食い散らかしてしまうので、いきおい発表される作品のオビにはたいてい、「著者初の」というキャッチ・コピーが付されることになる。

昨年は「著者初の短篇集」「著者初の恋愛小説」「著者初のミステリー」等を上梓し、今年は「著者初の中世ヨーロッパ世界」「著者初の歴史時代小説」「著者初の近未来SF」等を発表する予定なのである。ために「お祭り次郎」の綽名(あだな)が、近ごろでは「越境作家」に変わり、お友達がいなくなった。

しかし、無節操もこういうたぐいのものになると、口で言うほど簡単ではない。なにしろ舞台が暗転した一瞬に装置も音声も照明も変わり、衣裳も着替えて、まったくちがった脚本の一人芝居を始めるのである。

というわけで、私は旅立つ朝に目覚めたとたん、突如として幕末動乱期の南部藩士に豹変したのであった。

「きょうはどちらへ」

と、おそるおそる私の顔色を窺いながら家人は訊ねた。

「急な所用にて、国表(くにおもて)へ参る。仕度をいたせ」

「ハ? ……パンチ君のおさんぽは」

「何をたわけたことを申すか。ご家老楢山(ならやま)佐渡様より、ただちに帰参せよとの火急の使者が参ったのじゃ」

「……して、おともは」

「版元紀尾井屋の大番頭文右エ門、および番頭好吉が同行いたす」

「それはまた、何とも急な。駿河屋さん、音羽屋さん、朝日瓦版等々の締切が迫っておりますが」

「よきにはからえ」

道中仕度おさおさ怠りなく、ヒゲとサカヤキを整えて家を出た。

江戸表(おもて)より盛岡までは百四十里、およそ13日間の旅程である。

と思いきや、実は東北新幹線でひとっ飛び、わずか2時間30分なのであった。

作家の取材旅行は「考える旅」である。

片方の脳で知識を吸収しながら、もう片方ではたえず物語のイメージを膨らまし続ける。この脳内作業は、たとえば食物の摂取と消化吸収と分解と栄養の蓄積とを、間断なく続けているようなもので、脳ミソも内臓の一種なのだとつくづく思い知らされる。

早い話が不健康な旅なのである。人間の脳ミソというものは思考レベルを高めてしまうと、あんがい制御がきかないので、小説の構想とはもっぱら関係のないことまであれやこれやと考えこんでしまう。

東京駅を出発してすぐ、私はものすごく変なことを考えてしまった。変なことと言ったって何もいやらしいことではない。

「好吉。つかぬことを訊ねるが──」

「へい、何でございましょう。手前どもにわかることでしたら、何なりと」

「ふむ。今しがたふと考えたのじゃが、どうとも合点がいかぬ。心して聞いてくれい。この新幹線『やまびこ』は、秋田新幹線『こまち』と連結しておる。聞くところによれば『こまち』は盛岡駅から在来線の軌道に乗り入れ、秋田城下に至るというではないか」

「へい、おっしゃる通りで。『こまち』は盛岡から田沢湖線に入りますけど、それが何か?」

「面妖じゃ。考えてもみよ、東北新幹線は広軌、在来田沢湖線は狭軌のレールを使用しておるのではなかったか。だのに両者はなにゆえ、手をたずさえて軌上を走ることができるのじゃ」

「……言われてみれば、たしかに」

「であろう。面妖じゃ。元来相容(あいい)れぬはずの広軌と狭軌が何ら蹉跌(さてつ)もなく同一軌上を走るとは、昨今の薩長連合もかくやはと思えるほどの奇々怪々。そちたちはいかが思う」

かくて私たち三人は、国表到着までの間、喧々囂々(けんけんごうごう)たる議論を戦わせたのであった。主張は三者三様で一致せず、また主張というほどそれぞれの意見には自信も説得力もなかった。

大番頭文右エ門はこう主張した。

「それは、盛岡駅で車両の台車を乗せかえるのですよ。広軌用から狭軌用に」

私と好吉は猛反撥した。長い車両のすべてのゲタをはきかえることなど考えられぬ。「こまち」に客は乗ったままなのだし、第一そんな手間をかけるぐらいなら今まで通りに在来線を乗りついだ方がいいに決まっている。

次に番頭好吉の説。

「東京─盛岡間にレールが四本、もしくは三本ついているのでしょう。『やまびこ』が広軌を走り、『こまち』は狭軌を走っているのです」

私と文右エ門は猛反撥した。そんな二人三脚みたいな格好で新幹線が走るなど、とうてい考えられぬ。

そこで私の主張。

「車輪の幅が油圧等の力で変化するのではあるまいか。盛岡駅で切り離すと同時に、『こまち』の車輪の幅がギイと縮まり、在来線の狭軌を走り出すのじゃ」

ブーイングが飛んだ。そんな途方もない技術が可能ならば、とうの昔にリニアは走っている、というわけだ。

盛岡駅に到着したとき、よほど駅員に訊ねようと思ったが恥ずかしいのでやめ、三人で「こまち」の出発を見送った。彼女は台車をかえる様子はなく、二本のレールの上を、こともなげに元の車輪のまま走り去って行った。

面妖である。

果たして雪国の武士たちは何を履いてた?

折しも粉雪の降りしきる城下を歩きつつ、盛岡南部藩の居城に向かう。城郭は明治7年に取り壊され、石垣と濠の一部を残したまま公園となっていた。

雪を踏みながら本丸跡に立ったとたん、私はまた変なことを考えてしまった。もちろんいやらしいことではない。

「好吉。つかぬことを訊ねるが──」

「へい……また、何か?」

「つい今しがた考えたのじゃが、城下のお徒士(かち)はこのような雪の日、いったい何を履いて登城いたしたのであろうな」

小説を書くにあたり、これはきわめて重大な問題であった。

「それはワラグツでしょう」

と、文右エ門。私はたちまちその首を締め、好吉も下剋上の回し蹴りを見舞った。いやしくも二本ざしの武士が、ワラグツを履いてゾロゾロ登城するはずはない。少なくともそんな光景は小説家の美意識が許さない。

「好吉、そちはどう思うのじゃ」

「へい。決まってまさあ、カンジキです」

 好吉は深雪のマットに沈んだ。

「手打ちじゃ、そこに直れ」

「まあまあ浅田様。好吉も問われたままに答えただけで。手打ちなどとご無体な。ましてやこの者は紀尾井屋きっての歴史オタク、斬って捨てては代りがおりません。よしなに、よしなに──ときに、浅田様のお考えは?」

私はけっこう自信を持って答えた。

「それは決まっておろう。武士は登城の折といえども常時即応、しかも体面を気にする。ワラジじゃ、ワラジ。雪の冷たさなぞ知らぬそぶりで、日ごろと同様にワラジもしくは草履(ぞうり)を履いておったのじゃ。冷たいの寒いのと言えば士道に悖(もと)る。みな歯をくいしばって雪に耐えたのじゃ」

冬の弱日(よろび)はすでに西の山に消えかかっており、横なぐりの風が粉雪を巻いて吹きつのった。私たちはみな地吹雪の中で氷の彫像となっていた。

「ほう。ワラジでねえ……」

と、文右エ門は軽蔑しきった目で私の足元を見つめた。防寒靴を履いているにもかかわらず、私は絶え間なく足踏みを続けているのであった。

ともあれこの疑問が解けぬうちには「著者初の歴史時代小説」の筆は下ろせぬ。

願わくば、どなたかご正解を。

(初出/週刊現代1998年2月14日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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