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クラブを投げ続けた末の自業自得

別な試合では、ティショットに失敗してドライバーのヘッドを踏んづけたところ、スパイクの鋲がヘッドに突き刺さって抜けなくなった。仕方なく彼は靴底の下にヘッドをつけたまま歩き出したが、どうにもバランスが取れず困り果てていた。その姿を見て一人の役員が近づき、彼に忠告した。

「左の靴の下につっかえ物をすれば、すべてのショットがアップヒルライになると計算したらしいが、つまりはライの改善に該当する。大至急撤去しなさい」

彼は同伴競技者の手を借りて、ようやく厄介物を始末したが、その役員に罵声を浴びせたペナルティによって500ドルの罰金が科せられた。

やがて、彼のパフォーマンスはアマチュアの世界にも蔓延した。全米アマに登場した若きアーノルド・パーマーまでが、ダフった瞬間にクラブを投げる始末だった。

たまりかねたプロゴルフ協会では、「トミー・ボルト・ルール」と名づけたクラブ投げ禁止条例を発布した。彼に限ってクラブ投げに500ドルの罰金が科せられるという内容だった。

この処置に対して、多くのファンから試合の興味を削ぐ処置だと抗議が寄せられた。心ない連中にしてみると、自分たちには手の届かない高価なクラブが投げられ、踏んづけられる光景こそストレス発散に最適であり、彼の行為は一服の清涼剤になるとテレビで語るアホな芸能人も現われた。

新ルールが誕生して間もなく、コロニアル・オープンに出場した彼に絶体絶命の危機が訪れた。その日、1メートル前後の短いパットがことごとくカップに嫌われて彼は爆発寸前。同伴競技者のエド・ボーキー・オリバーにたしなめられ、辛うじて自制を保ちながらやってきた18番グリーン。ところが彼は一万五千人の大観衆の前で、またもや短いパットを外したのである。瞬時に顔面が紅潮し、両手がブルブル震え始めた。間違いなく数秒以内にクラブが投げられる局面、そのとき横から近づいたエドが彼の手からパターをもぎ取って近くの岸辺まで行くと、いきなり水面めがけてぶん投げたのである。これには当のボルトも大笑い、ギャラリーも大爆笑、親友が危機を救ってくれたのだ。

「私の場合、ロングパットを沈める確率よりも、パターを壊す確率のほうがはるかに高かった。多い年には30本以上のパターが血祭りにあげられた。もちろん、ギャラリーの前でクラブを投げたり壊したり、決して褒められた行為ではないが、やるまいと思っても自然に手が動いてしまうのだ」

やがて、いくつかの新聞に、彼のゴルフは下品すぎるというコラムが登場し始めた。別な雑誌では著名なコラムニストが、これからゴルフを覚える子供にとってクラブ投げは非教育的であり、罰金よりも出場停止処分にすべきだと書いた。

こうした動きとは別に、ギャラリーのほうも度重なるクラブ投げに飽きたのだろう、1962年ごろには、彼がクラブを叩きつけると一部観客からブーイングが起こるまでに事態が変化した。粗野なふる舞いは品格あるゲームに似つかわしくないのだ。

フィラデルフィア・クラシックに出場していた彼が、名物池越えの12番ホールでピン横1メートルに密着するスーパーショットを放った。ところが、グリーンの周りにいた数千人のギャラリーからは盛大な拍手が起こる気配もなかった。彼は自分のキャディに尋ねた。

「連中の拍手が聞こえたかね? 俺には何も聞こえなかった」

「わしにも聞こえませんでした」

キャディの答えを聞いて、老いたるボルトが呟いた。

「もう誰も俺のプレーなど見たくもないのか。どうやら終わったね」

その年限り、癇癪(かんしゃく)ゆえに選手寿命まで縮めた彼の姿がツアーから消えた。

(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)

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夏坂健

1934年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。

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おとなの週末Web編集部 今井
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