ドイツの落下傘部隊に備えてライフルを持ってプレー
ジンバブエでは、国際空港に隣接するコースにジャンボ機が不時着した。そのとき、ざっと100人のゴルファーがプレー中、あまりのショックで心臓発作に見舞われた老人もいた。
運よく貨物専用機だったため、乗務員が軽傷を負った程度で済んだのは不幸中の幸いだが、コースは1ヵ月ほど使いものにならなかった。
一方、アイオワ州の小さな田舎町、ローレンスにある町営のローレンスGCでは、飛行機事故が日常茶飯事である。何しろ9ホールのうち7ホールまでが滑走路を横切るレイアウトなのだ。
20年以上も農薬散布の軽飛行機を操っているパイロット、ノーマン・ハートソック氏によると、
「プレーに熱中するゴルファーにとって、眼下のボールこそ問題、頭上など気にしないものだ。私が着陸態勢に入っても、見上げる気配すらない。ときには頭上すれすれ、わずか5メートルの至近距離を飛ぶこともある。あちらも命がけなら、こちらも命がけだ。
問題解決のため、これまでにコース側と再三話し合いが持たれたが、どちらにも譲る気配がない。過去に数回、飛んで来たボールが機体に命中したが、いずれの場合も大事に至らず、とくに損害賠償など求めたこともない。ただし、もしパイロットに命中したなら大変なことになるだろうね」
そういえば、これは杉本英世プロから聞いた話だが、1965年の風の強い日、横浜の磯子カンツリークラブでプレー中に、とんでもない物が空から降ってきたそうだ。
「その日は勝俣功プロたちと月例競技に出ていた。9番ホールまで絶好調、ティグラウンドに立った私は思いっきりドライバーを叩いて、それからクラブをバッグにしまおうとしたとき、はるか北の空から1機のヘリコプターが斜めになってこちらに飛んでくるのに気がついた。
『こんな強い風の中を、よくもまぁ飛ぶもんだなぁ』
そのとき、私はそう思った。次第に近づいてくるヘリは強風に逆らってボディを若干横にしながら、ヨロヨロした感じでやって来る。ショットを打ち終わった勝俣プロも隣に立って、私と同じように口をアングリ開けながら風と悪戦苦闘するヘリを見上げていた。
私がヘリから一瞬目を離して、最後の打者のボールが飛んだ方向を見やったときである。私たちの頭の真上で、『メリッ!』という立木を割るような音がした。ハッとして頭上を見上げると、いままさにヘリのプロペラと胴体が、スローモーションの画面を見るようにゆっくりと離れていくところだった。
竹トンボのようなプロペラは、胴体から離れても依然として進行方向にきれいに回転し続けていた。プロペラから離脱した胴体は胴体で、これまたゆっくりと同じ姿勢を保ったまま、スウーッとこちらに向かって落下してくるではないか。心臓が凍りつくとは、まさにこのこと。私たちは石のように立ちつくして見守るだけだった」
空から落ちてくるのは隕石、飛行機ばかりとは限らない。戦時中のイギリスでは、爆弾が絶え間なく降りそそぐ日が続いた。もちろん、ゴルフコースとて例外ではない。いくつかの由緒正しき名コースまでが、砲弾によって無残に破壊され、プレー中止のやむなきに至った。
しかし、彼らにとってゴルフは命の糧、戦時中もナチスの落下傘部隊降下に備えて、パーティの一人が必ずライフルを持つことが義務づけられたのは当然としても、ゴルフをやめる気などさらさらなかった。
1943年には、ロンドン郊外のコースの大半が爆撃の被害にあったが、ジョンブルに臆する気配なし。プレー中の彼らは拳を空に突き出して、こう叫んだものである。
「いいかげんにしろ、コースレイアウトが変わるじゃないか!」
1948年には、オーストラリアの南端、テーレムベンドの6番に砲弾が撃ち込まれた。近くで訓練中の砲兵部隊の誤射だった。
おわかりかな? 思い通りにいかないからといって、うつむいてはいけない。いつかマグレ当たりが爆発する日もあれば、いい加減に打った長いパットがコトリと沈む日もある。だからコースでは、堂々と上を向いて歩きなさい!
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1934年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。