1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第57回は、作家が愛する競馬場、銭湯で流れるB・G・Mが、日々の生活をどれだけ豊かにしてくれるか!? というお話。
画像ギャラリー「B・G・Mについて」
東京競馬場の選曲はプロの仕業
原稿遅滞の罪により収監されていた紀尾井屋の座敷牢を破り、東京競馬場に行った。
出社した番頭はさぞ仰天するであろうが、知ったことではない。
なにしろタケシバオーやスピードシンボリがターフを疾駆していた時代から、競馬は毎週欠かさずやっている。それが、いったい何の因果かは知らんが、この夏をしおに馬券どころか競馬新聞も買えなくなった。
番頭たちはみな口を揃えて、
「競馬はストレス解消にはいいですよね。浅田さんはお酒も飲まないし、他にこれといった趣味もないんですから」
とか言うのだが、それすらさせてくれないのはどこのどいつだ。なおおそろしいことに近ごろでは、JRAすらも原稿の督促をする。
というわけで、晴れて朝っぱらから府中のスタンドに立つのは、6月のダービー以来なのであった。
朝の競馬場が好きだ。
熱いコーヒーを啜りながら一服つけ、もしかしたら今日の夕方には億万長者かも知れない、といつも思う。四半世紀にわたりいつも思ってきたのに、いまだ億万長者になったことがないのはなぜであろう。
そんな私の耳に、B・G・Mが快い。
東京競馬場の朝の指定席に流れる音楽は、モーツァルトと決まっている。なぜモーツァルトなのかというと、チャイコフスキーの「悲愴」ではまずく、シューベルトの「未完成」でもまずく、ベートーヴェンの「運命」ではもっとまずいから、モーツァルトなのである。
モーツァルトの音楽には緊張を弛緩させる麻薬性がある。それを聴いていると誰でも生活を忘れ、金勘定を忘れ、倫理も道徳も、世の中の秩序も忘れてしまう。
選曲はプロの仕業にちがいない。モーツァルトの中でもとりわけ経済感覚を麻痺させる「交響曲40番ト短調」が良くかかる。
しかるのちに、女房子供の顔をたちまち喪(うしな)わせる「アイネ・クライネ」が流れ、パドックに馬が現れる時間になると、射幸心を否が応でも鼓舞する「ジュピター」が鳴り響く。豪快なティンパニーの連打とともに、いきなり3歳新馬戦から法外な勝負に出てしまう、というわけだ。
無意識に聴くB・G・Mの効果はおそろしい。モーツァルトの魔力を知っている人はもともと競馬なんぞやらないから、指定席のファンはほぼ全員この罠に嵌はまっており、JRAは毎日一億円ぐらいの利益を上乗せしていると思う。
もっとも「B(バツク)・G(グラウンド)・M(ミュージック)」は鑑賞するための音楽ではなく、ムードを盛り上げるためのものなのであるから、その点JRAはセンスが良いと言うほかはあるまい。
おそらくこの世には、B・G・Mを選曲するプロの集団が存在するのであろう。私たち都市生活者は、日常どこへ行っても意識せずにB・G・Mを聴き、少なからずその影響を蒙こうむっている。
この日、私はついついモーツァルトに嵌まって散財をしたあげく、反省のため銭湯に行った。
サウナ・ルームの中にもB・G・Mは流れている。
顔見知りの極道が呟いた「効くなあ」のひと言
ところで、都心の高級サウナや、ホテルのパブリック・バス等にはどういうB・G・Mがかかっているのかというと、たいていはマントバーニー、パーシー・フェイス、レイモン・ルフェーブルといった軽音楽である。やはりプロの指導によるものであろうか、たしかにひたすら耐えるばかりのサウナ・ルームの中には、「バリ・ハイ」「南太平洋」「シャルメーヌ」などという曲がふさわしい。ほとんどそれしかない、というほどの究極の選曲である。
しかし、私の行きつけの銭湯は多摩川中流域の、おせじにも民度が高いとは言えぬ場所にあるので、客の趣味に従ってちと変わった音楽が流れている。
客のほとんどは、工員、職人、梨畑のオヤジ、運転手、極道、極道作家等のブルーカラーである。
したがって、彼らにマントバーニーを聴かせてもかえってイライラするばかりなので、サウナ・ルームの中には常に「演歌」が流れている。
どうかマッチョな男たちで犇(ひし)めくサウナ・ルームの中に、演歌の鳴り響くさまを想像していただきたい。
暑い。ものすごく暑い。ただでさえ暑いところへきて、ぎっしりと並んだ男たちの背中から、それぞれの人生の悲哀とか愛憎とか悔恨とか懺悔(ざんげ)とかが、湯気となって立ち昇るのである。
しかもB・G・Mは有線放送であるらしく、演歌の中でも極めつきのド演歌ばかりがかかる。男たちは流行歌とか音楽性とかには全く無頓着で、ひたすら浪曲と紙一重の人情演歌に耳を澄ます。
かくいう私も、表向きはクラシック・ファンを装いながら、実は演歌のファンなのである。サウナ・ルームの中で渋いうなり声を聴いていると、いつしかわが人生の悲哀を思って時を忘れる。
ことに、北島三郎の「兄弟仁義」、村田英雄の「無法松の一生・度胸千両入り」または「人生劇場」、森進一の「命かれても」、美空ひばりの「悲しい酒」等がかかると、ガマンの限界に達していても曲が終るまではサウナ・ルームを出ることができない。いや、出ようとしてもみんなが同じ気持で一曲分を粘るから、出ようにも出られないのである。
たまにこうした名曲が3曲連続でかかってしまったりすると、一挙に1キロも瘦せてしまう。
ふと思うに、サウナB・G・Mとしてのマントバーニーは、たしかに気分を涼やかにさせる効果はあるが、それによっていっそうガマンができるというほどのものではあるまい。
しかしその点、演歌はまちがいなく自虐的効果により、ガマンの限界を引き延ばす。
演歌を聴きつつ散財の反省をしておったこの日、そろそろ出るべえと思ったところに折よく、高倉健の「唐獅子牡丹」がかかった。「アイネ・クライネ」も「シャルメーヌ」もいいが、「唐獅子牡丹」はもっといい。
私はナゼかというか当然というか、この歌に感情移入をしてしまう。
義理と人情を秤にかけて生きてきたのである。観音様は幼なじみなのである。
つい暑さを忘れて聴きほれながら、2番の「親の意見を承知ですねて 曲がりくねった六区の風よ」
のところで、いつものようにウッと胸がつまった。
積もり重ねた不孝の数を 何と詫びよかおふくろに──男たちはみな、たくましい背中に汗を滴らせながら俯うつむいていた。
ここまで聴くと、どうしても最後まで聴かねばならんのである。
やがて夜明けの 来るそれまでは 意地で支える夢ひとつ──
今さらこんなことを言うのも何だが、言ったところで詮ない愚痴ではあるが、この歌をいつも口ずさんでいたころは、ほんとにつらかったのである。
いや、男なのだから痛いつらいはいくらだってガマンをするが、無理なガマンをしながら欠いてはならぬ義理を欠いてしまったり、人情に背を向けてしまったり、友を裏切ったり、女を欺いたり、そのほか男として恥ずべきことを、たくさんしてきてしまったのである。
曲が終るのを待って、マッチョな男たちはどやどやとサウナ・ルームを出て行った。
隣に座っていた顔見知りの極道が、真ッ青な肩をしぼませて呟いた。
「効くなあ……」
続けてスピーカーから流れてきたのは、一節太郎の「浪曲子守唄」であった。
逃げた女房にゃ 未練はないが お乳ほしがるこの子が可愛い──
渋いB・G・Mではあるが、幸い私はまだ女房には逃げられておらず、娘も高校生なのでさほど感情移入はしない。
「さあて、出るか」
極道と2人でサウナ・ルームを出ようとしたら、ひとり居残った中年の男が、しみじみと曲に合わせて歌い始めた。
どこか似ているめしたき女 抱いてくれるか不憫(ふびん)なこの子──
俯(うつむ)いて口ずさみながら、男はしきりに額の汗を拭っていた。
(初出/週刊現代1996年11月2日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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