目の前に現れたのは怪人だった……
私たちは何だかおもちゃの兵隊みたいな足どりで1号館前の広場に向かった。途中まちがって隣のやつの足をふんづけた。そいつの半長靴は磨きすぎで、ほとんど「蝋びき」状態になっており、踏んだ途端にパリッと割れた。
「ああっ!」と、そいつは叫んだ。
「す、すまん」と私は言った。
靴どころか、私たちの神経も下手に触ればパリッと割れてしまうぐらい緊張していた。
絶対に笑ってはならなかった。
私たちはあのいかめしい1号館の、まるで巨鳥が舞い降りたような荘厳な影の下に整列して、じっと儀仗の時を待った。見上るだけで極東軍事裁判の法廷であったこととか、三島由紀夫がそのバルコニーに立ったことなどを彷彿(ほうふつ)とさせられる、あの建物の前庭だった。
絶対に、絶対に笑ってはならなかった。
その状態で予定外に小1時間も待たされた。緊張は限界を超えていた。尿意をこらえねばならず、屁もこらえねばならず、私たちはひたすら、じっと待った。
そしてついに、赤い絨毯を敷きつめた車寄せに、某国大統領とモーニング姿の宮様がお出ましになった。きら星の如きそうそうたる将官たちが後に随(したが)っていた。
一瞥したとたん、(まずい……)と感じた。
日ざしの中に現れた国賓の大統領閣下は、どうみても体重200キロ超、まさにこの世のものとはおもわれぬ異形の怪人だったのである。しかも純白のおそろしく派手な服装に、満艦飾の勲章をつけ、顔は常人の3倍は優にあった。
今ならば私たちは「小錦」という同種の人類の存在を知っている。しかし当時、小錦はまだハワイの少年であった。つまり私たちは全く突然に、この世にいるはずのない体重200キロの、しかも満艦飾の怪人を目撃してしまったのであった。
絶対に笑ってはならなかった。
直立不動の隊員たちは、みな低い切ない声で、「うーうー」と呻(うめ)いていた。誰かが噴けば一巻の終わりであった。私は奥歯を噛みしめながら心ひそかに今この瞬間核戦争が起って、世界が破滅してしまえば良いとさえ思った。
ラッパ隊が「栄誉礼冠譜」をおごそかに吹鳴した。心なしか彼らの音もあやしげに慄えていた。官譜は定めにしたがって4度繰り返され、やがて受礼者とその一行は巡閲を開始した。
「さ、さ、さァさァげェーつーつっ!」
指揮官はどもった。性格な3挙動で私たちは一斉に捧げ銃をし、受礼者にきっかりと目を据えた。小錦はまるで悠然と花道を往くが如く、ゆっくりと迫ってきた。銃を握る私の手は慄え、腹筋はわなないた。笑うな、笑うなよと、私は懸命に自分を叱咤した。
その時、あたりの異常な気配に気付いた列中の古参隊員が、低い、どうしようもない切迫した声で呟いた。
「……笑うな……笑うなよ……」
これですべてが終わった。世界の破滅であった。まず隣のやつが、プルプルプルと唇を慄わせた。それを合図に、30名は捧げ銃の姿勢のまま、プルプルプルと唱和した。とたんに気がゆるんで、銃剣の先は波のごとく揺れさざめき、尻の緊張もゆるんで苦しげな屁も何発か聞こえた。
不運なことに、おりしも前列のなかばにいた私の正面を、大統領が通過した。私は直立不動のままぼろぼろと涙をこぼし、そしてついに1メートルの至近距離に接近した巨顔に向かって、ブハッと噴き出してしまったのであった。
さてふしぎなことに、この歴史的NGはその後、誰からもとがめられることがなかった。おそらく参会者のお偉方も、無理からぬことだと考えていたにちがいない。
ところで、件の「恩賜の煙草」を私は今も大切に保管している。苦労がかさんで笑いを忘れたとき、小箱を開いてそれをながめる。
すると20余年の時を越えて、問答無用の笑いが甦(よみがえ)る。たいへん不謹慎な話だが、私にとってそれはいまだに、かけがえのない元気の源なのである。
(初出/週刊現代1994年12月10日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。