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「遥かなる鉄路について」

旧満鉄時代から鉄道ひとすじに勤め上げた男

「呉美林(ウーメイリン)」という名は、日本人ならばさしずめ「白鳥麗子」とでもいうふうな、たおやかなる美女の名前である。

だがその名の持ち主は、昔日(せきじつ)の隆々たる筋骨をしのばせる、巨漢の老人であった。

呉さんと出会ったのは長春からハルピンへと向かう軟座車の車内である。軟座車というのはいわゆるグリーン車のことで、日本のそれとは較ぶるべくもないが、ともかく板張りベンチの便座車とはちがい、クロス張りのシートになっている。乗客はすべて軍人か、様子のよいビジネスマンであった。

「私は旧満鉄時代から鉄道ひとすじに勤め上げたので、軟座車はフリーパスなのです」と、呉さんは誇らしげにその証明書を見せた。

それがたまたま向かいの席に座った彼の、自己紹介だった。

日本から同行したガイドのNさんがとても上手な中国語を使うので、はじめは私たち一行を広東か香港から来た旅行者だと思ったらしい。

「不(プー)、我是日本人(ウォーシーリーベンレン)」

と答えたとたん、呉さんはでっぷりと肥えた体をのけぞらせて、大仰(おおぎょう)に驚いた。

「日本(リーベン)!」

近ごろでは中国東北のそのあたりまで足を延ばす日本人観光客は珍らしいのである。呉さんは赤ら顔を上気させて、私たちひとりひとりに握手を求めた。

愛らしい女の子が、呉さんの膝にまとわりついていた。おもかげは祖父に似ている。

まるで孫娘に教え聞かせるように、呉さんは遠い昔に習い覚えた日本語を口にした。

「ア、イ、ウ、エ、オ。カ、キ、ク、ケ、コ。オハヨウゴザイマス。コンチワ。サヨナラ、マタアシタ」

呉さんは忘れかけた歌を唄うように、何度もくり返した。

遥かな地平線に、蜃気楼(しんきろう)のようなポプラ並木が続く。線路の左右には数キロごとに、旧日本軍の残したトーチカが眠っていた。

涯(はて)しもない黄色の大地である。

「13歳で満鉄に入りました。戦後は日本軍に協力した『漢奸(かんかん)』と呼ばれて、ずいぶんひどい目にあった。でも生涯をこの鉄道とともに過ごすことができて、今はこうして軟座車に乗っています」

Nさんは正確に、呉さんの言葉を通訳してくれた。

「みなさんには知っておいてほしいことがたくさんあるのだけれど、聞いて下さいますか」

礼儀正しい前置きをして、呉さんは諭(さと)すように語り始めた。

長春の郊外に、その昔ひどい実験をする日本軍の部隊があった。そこに連れて行かれた中国人はひとりも帰ってこなかった。健康な人の体に黴菌(ばいきん)を注射したり、生きたまま解剖したり。

その話は日本人もみな知っています、と私は言い返そうとして、口をつぐんだ。知っていることでも、この人の口から聞かねばならないと思った。

同行の寡黙(かもく)な老人にかわって、呉さんは言った。

「この人のおかあさんも、そこで殺されたんです。真冬に裸で縛りつけられて、零下10度、20度、30度、45度で亡くなったと、後で聞かされた。日本軍の下働きをしていた近所の人がね、そっと教えてくれたのです」

やめなさいよ、と柔和で寡黙な老人は呉さんをたしなめた。

「でも日本人は立派な建物をたくさん建てて、道路も鉄道も整備してくれた。長春の町は美しかったでしょう。敷石は1メートルの厚さがあって、電線もみんなその下に埋められているのです」

かつて新京と呼ばれた旧満洲国の首都長春は、たしかに美しい町だった。王道楽土や五族共和といった国家的スローガンが、果たしてどこまで人類の歴史に対して誠実なものであったかは、今となってはむろん疑わしいのだが、ともあれその都に誠実な夢を賭けた日本人も大勢いたはずである。

呉さんは言うにつくせぬ恨み憎しみとはべつに、その誠実さを理解して下さっていた。

「日本人の作ったものは、50年、60年たってもビクともしない。たぶんこのさき、100年、200年たってもね」

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苦渋を乗り越えてきた「中国のポッポヤ」の微笑み...
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おとなの週末Web編集部 今井
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