苦渋を乗り越えてきた「中国のポッポヤ」の微笑み
呉さんは生涯を捧げた遥かなる鉄路を、まばゆげに見つめた。沿線の左右数十メートルに、芽吹き始めたポプラ並木が続く。それは大連からずっと、絶えることなく線路に沿って続いていた。
「初めは、あの並木のところまでが満鉄の土地でした。日本の権利ですね。そのうちどういうわけか境界がなくなって、ぜんぶ日本になった。ポプラはただの並木になってしまった」
しばらくの間、孫娘と遊んでから、呉さんはふいに言った。
「満鉄に入ったころ、日本人によく叩かれました。このくらいの太い棒きれでね、尻をいやというほどぶつんですよ。バカヤロー、って。バカヤロー、バカヤロー、バカヤロー。意味がわからなかった。いえ、叩かれた意味ではなく、バカヤローという言葉の意味がわからなかった。今もよくわからない。バカヤロー、って、どういう意味ですか」
答えようはなかった。「バカヤロー」は私たちの暮らしの中でも日常性があるのだから、それを使用した日本人たちにべつだんの他意はなかったのかもしれない。しかし、同じ人間だと思っていれば、「バカヤロー」と口にこそすれ、馬や鹿のように中国人の少年を殴りつけることはできまい。
たぶん呉さんは、その意味を承知で私たちに訊ねたのだと思う。
中国人は元来が平和的な民族である。総じておしゃべりで感情的だから、町なかでも口喧嘩はよく見かける。しかし、たびたび中国を旅して、暴力沙汰というものをついぞ見たためしがない。
あれだけ膨大な人口の犇(ひし)めき合う町なかで、口々に怒鳴り合い罵(ののし)り合いながら、中国人はけっして手を上げることがない。
「殴られた痛みはとうに忘れてしまいましたが、あのバカヤローという声は今も耳について離れない。いやな言葉ですね。若い人たちには、昔の話はよく聞かせますよ。でも、バカヤローという言葉は教えない。そんなもの、覚えても仕方がないからね」
列車がハルピンに近付くころ、大いなる地平に夕陽が沈んだ。それは古い歌の文句にあるような赤い夕陽ではなく、黄砂の帳(とばり)の向こうの、銀色の月のような落日だった。
満洲のたそがれには、真赤なそれよりも穏やかに光を失って沈む夕陽のほうがよく似合う。
呉美林さんと名も知らぬ寡黙な老人は、ハルピンに近い小駅で列車を降りた。別れぎわに孫娘を抱き上げ、この人たちが「日本人(リーベンレン)」だよと、私たちのひとりひとりに微笑みかけた。
「ア、イ、ウ、エ、オ。カ、キ、ク、ケ、コ。オハヨウゴザイマス。コンチワ。サヨナラ、マタアシタ」
呉さんは、バカヤローと罵ったかつての日本人を、子や孫に語り伝えようとはしない。言うにつくせぬ怒りや悲しみは鋼鉄の箱の中に収めて、この人たちが「日本人」なのだよと、孫娘に教えてくれた。
それは、遥かなる鉄路に生きた、もうひとりの鉄道員(ぽっぽや)の姿だった。
たくましい掌(てのひら)を握ったとき、私にはどうしても言いたいことがあった。
僕はあなたと同じ職業を全まつとうした日本人を知っています。心をこめて物語に書きました。いつか中国語に翻訳されたなら、ぜひ読んで下さい、と。
もちろん言葉にはならなかった。
〈ポッポヤはどんなときだって涙のかわりに笛を吹き、げんこのかわりに旗を振り、大声でわめくかわりに、喚呼の裏声を絞らなければならないのだった〉
満洲の遥かな鉄路を守り続けたもうひとりのポッポヤに、私は胸の中でお気に入りのフレーズを捧げた。
呉美林さんの掌は、私がそれまで出会ったどのような傑物のそれよりも温かく、また巨(おお)きかった。
(初出/週刊現代1998年4月25日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。