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ほんの一瞬の出来事で書き上がった小説

ものすごくありがたかった。なにしろそのころの私は極めて劣悪な執筆環境にあり、居間兼書庫兼寝室兼食堂兼書斎の6畳間に、家族もろとも13匹の猫もろとも暮らしていたのである。しかも『蒼穹の昴』は1000枚を超え、物語はいよいよ佳境に入っていたのであった。

自分で言うのも何だが、私はけっこう働き者なので、カンヅメにされればみごとシャケになる。で、千倉の保養所における1週間は、ほとんど散歩にすら出かけず、ダルマのごとく座り続けて原稿を書いた。ちなみにそのとき書いた部分は、同著下巻第62節の西太后暗殺未遂事件のくだりである。

さて、6月初めの会社保養所といえば、当然利用者は皆無である。芝生の庭ごしに望む渚にも人影はなく、私は執筆に疲れればぼんやりと浜千鳥のたわむれを眺め、目を閉じて潮騒(しおさい)を聴いた。

ガランとした食堂で賄(まかな)いの朝食をいただいた帰りであったと思う。長い廊下を歩いて部屋に戻る途中、フト西向きの窓辺で私は足を止めた。

空地の向こうに白いペンキを塗りたくった家がある。一見したところアーリー・アメリカンふうの瀟洒(しょうしゃ)な2階家であるが、青空を背にしたたたずまいはどことなくぎこちない。

外階段の踊り場でフィリピーナが鼻歌を唄いながら洗濯物を干しており、2階の窓辺には2段ベッドに横たわる女の頭が見えた。陽気でかまびすしい外国語のやりとりが聴こえてくる。

そこが外国人女性を商品とする曖昧酒場であることは明らかであった。

暇にかまけてその風景を眺めているうちに、何だかとても切ない気分になった。彼女らの身の上をあれこれと想像したからではない。彼女らの日常を何の違和感もなく受け容れ、まるで渚にたわむれる浜千鳥を見るのと同じ目でそれを眺めている自分に嫌悪を感じたのであった。

これはふつうではないと思った。彼女らの存在よりも、また彼女らを夜な夜な抱きにくる男たちの存在よりも、天然の風景を眺めるようにそれを眺める自分はふつうではないと思った。

洗濯物を干していた女は私に気付き、片言の日本語で何かを言い、手を振った。すると2段ベッドに寝ていた中国人らしい女も半身を起こし、こちらを向いて何かを話しかけた。まばゆいほどの笑顔であった。

時間の単位では計れないほんの一瞬、私の中で小説が書き上がった。

森崎東監督の手になる映画『ラブ・レター』を試写会で観たとき、びっくりしたことがある。何と監督は私が原作の想を得たその家を、そっくりそのままロケ場所に使っていたのであった。

むろん私は何も語ってはいない。だが映画の後半に登場する海辺の曖昧酒場は、まちがいなく私が原作を着想した家そのものであった。

〈車はやがて、海岸通りの手前にぽつんと建つ店の前で止まった。真白にペンキを塗りたくられた二階家で、出窓には豆電球が点滅し、いかにもそれらしい名前の看板を掲げている。煙るような雨の中で、ネオン管がジイジイと鳴いていた〉

この店についての描写はわずかこれだけ、原作本の行数にすれば、たったの3行である。森崎監督はこの3行の描写から、私が着想した家を正確に探り当ててしまった。

まさに奇蹟を見る思いで、私はこの映画を観た。

小説とビジュアリズムとは共存しうる。文化を創造するという不変の意志がたがいにある限り、芸術の神はわれわれの上に微笑み続けるであろう。奇蹟とはそうした意志力の、必然の結果であろうと思う。

ではこれより、「お祭り次郎」に変じて映画『ラブ・レター』の営業に出かける。

(初出/週刊現代1998年6月13日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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