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「アメリカの正しい」は「世界の正しい」なのか?

ところで、ここで問題となるのは、アメリカのモラルがはたして人類のモラルとなりうるか、という点である。

アメリカは正義を信奉する国であるが、アメリカ人の正義が人類の正義ではない。むしろ正義というモラルは、個々の民族の文化の上に成立しているのであるから、それぞれに異質のものでなければおかしい。しかしアメリカは、何につけてもアメリカの正義こそが人類共通の正義であると決めつけているフシがある。そして世界中の多くの国々が、「アメリカは正しい」と考えがちである。

これは地球的な錯誤であろうと私は思う。たしかにアメリカはその強大な軍事力をもって、世界平和のために他国の紛争に介入する資格はある。ドルの実力と資本力とをもって、他国の経済事情に口を挟む資格はある。しかしアメリカの意思は、まさか神の意思ではない。ことに社会生活におけるアメリカ人のモラルは、人類共通のモラルとするほど上等なものではなかろう。

早い話が、天下国家のことならいざ知らず、タバコの喫い方までアメリカに倣(なら)う理由など何もない。ましてや分別ある大人が、国とJTを相手どって「タバコ病訴訟」を起こすなど、知的退行のきわみである。てめえが好きで喫ったタバコを、そのせいで病気になったから賠償せえなどと、何もそこまでアメリカ人のマネをすることはなかろう。

そんな裁判がまともに審理されるならば、「私は酒のせいで肝硬変になったから国と酒造業者は金を払え」という訴訟も起きる。「交通事故を起こしたから国と自動車会社は賠償しろ」も、「糖尿病になったのは国と菓子屋のせいだ」もまかり通る。私なんかいの一番に、「デビューが遅れたのは競馬のせいだ」と言い張って、国とJRAを訴えてやる。

建国からわずか二百数十年の歴史で世界のリーダーシップを取るに至ったアメリカ人は偉大であり、その国民的努力はまさに尊敬すべきであろう。ただし、わずか二百数十年の火急な繁栄には、けっして見習うべきでない多くの矛盾が内在していることを、われわれは知らねばならない。

アメリカには作り出す文化はあっても、守るべき文化はないのである。要するに「ミエ」というものを知らず、「恥」の概念がない。かくてニューヨーカーは男も女もくわえタバコで歩き、カーネギー・ホールの玄関前は巨大な喫煙所となる。

さて、セントラル・パークを見おろすエセックス・ハウスの窓辺でタバコを吹かしながら、もうひとつ気付いたことがある。

たぶんさきのヒステリカルな嫌煙運動と関係があると思うのであるが、ニューヨーカーたちは総じて「健康病」に冒されているらしい。

週末の早朝から、セントラル・パークはジョギングをする人々で溢れ返っている。むろん、それはそれで結構なことである。

しかし、元自衛官の老婆心から言わせてもらえば、テンコ盛りの超高カロリー食を食べ、週末にそれをまとめて消費しようとするのは、体にとってはたいそう毒である。運動はたとえ少量でも毎日同じカリキュラムを続けなければ意味はなく、また常時いくらかの空腹感を保つぐらいの節制をしていなければ、健康は維持できない。

そんなことは文明社会の常識であるから、彼らとて承知しているはずなのに、ニューヨーカーは老若男女こぞって、週末にはヒステリカルに公園を走り回る。まさに病気としか思えない。肥満を怖れるあまり、とにもかくにもカロリーを消費しなければならないとあせる、典型的な「健康病」である。

また、テレビでは24時間ずっと、体操ばかりをやっているチャンネルがある。コマーシャルまで運動器具と健康食品の通販なのである。

朝から晩まで、夜中から翌朝まで、エクササイズとボディ・ビルばかり、間断なく放映されているチャンネルの存在は、気持ちが悪い。大勢の健康病患者が麻薬でも飲むように、そのテレビの前にへばりついて運動をしているのであろう。

どうやら彼らの正義は、健康な肉体と不可分の関係にあるらしい。だとするとヒステリカルな嫌煙運動も、実はこの延長線上にあるのではなかろうか。

少なくとも自衛隊出身の小説家という稀有な経歴を持つ私には、彼らが健康維持という強迫観念にとりつかれ、知的退行をしつつある民族に思えて仕方なかった。

(初出/週刊現代1998年7月4日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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