ローマの皇帝は、フランスの太陽王は、ベートーベンは、トルストイは、ピカソは、チャーチルは、いったい何をどう食べていたのか? 夏坂健さんによる面白さ満点の歴史グルメ・エッセイが40年ぶりにWEB連載として復活しました。博覧強記の水先案何人の手引きで、先人たちの食への情熱ぶりを綴った面白エピソード集。第12話は、フランス王ルイ14世に晩餐を供した厨房長が命を賭けて示した芸術家としてのプライドについて。
夏坂健の歴史グルメ・エッセイ 第12話
嵐で魚が届かない! この大ピンチをどうする?
料理人は人の口の中のメンドウを見ているという自負がある。しかも甘辛酸苦の調味料で起承転結という味までつけてくれる。芸術は主食ではない。人生の上等なワインである――林語堂――
フランス貴族コンデ大公の厨房長バテルは、まるでタマゴを盗まれた親鳥のように、勝手口を出たり入ったり、ひどく落ち着きを失っていた。約束の正午をとっくに過ぎたというのに、魚を積んだ馬車がいまだに到着しないのだから無理もない。外に出るたびに風雨はますます激しくなるばかりで、バテルの全身はドブネズミのように重く濡れていた。
「ああ、いっそのこともっとひどい天候になってくれ。そうすりゃ国王陛下もお見えになるまいに」
雨に打たれながら、バテルは天候の悪化を祈り続けた。しかしこの祈りも太陽王の旺盛な食欲の前では空しい試みにすぎなかった。
なにしろバテルの作る料理の評判ときたら、当時のフランス上流社会にあまねく広まっていて、詩人のヒッテムまでが、
「バテル! この名は唾腺にこだまする」
と讃辞を贈ったほどの名料理人。その上、貴族の家柄に生まれた美男だった。
食に対する貪欲さでも人間ばなれしていた太陽王、ルイ14世がこの評判を聞き逃がすはずがない。従兄のコンデ大公にねだって、この雨の中をわざわざシャンティユーの居城までバテルの料理を食べにくるという。ところが、ところが、魚が到着しない!
ルイ14世は《歯なしの王様》だった。だからこそ324人もの料理人が必要とされたのかもしれないが、好物の肉料理には嚙みやすいように細かく庖丁が入れられ、歯ごたえのある野禽よりも家禽(鳥類)のほうを好まれたのは構造的必然だった。
この王の歯の状態を知っているだけに、今日の食卓にバテル自慢の数々のソースで仕上げた柔らかい魚料理は、絶対に欠かせないものだった。
勝手口から出たり入ったり、そうこうしているうちに家令が厨房に走り込んできて、
「国王陛下、ご到着!」
と告げたその大声で、バテルは一瞬心臓が凍りついた気がした。この悪天候で魚の馬車が到着しなかったのは仕方がないとしても、食卓に魚1匹登場しない前代未聞の珍メニューの全責任はまさに自分にある。
それでもバテルは4種類のスープ、家禽を中心にした74皿の料理、そして12皿のデザートを食卓に供した。ルイ14世は1皿ごとにバテルのような名料理人をかかえているコンデ大公に羨望の言葉を投げかけ、大いに満足してベルサイユ宮殿に戻っていった。