全盛期のベストスコアは3日間で30アンダー
1949年、ゴルフ史の中でも画期的といえる試合がアルバカーキで行われた。ある製菓会社がスポンサーとなって、黒人ばかりのトーナメントが開催されたのだ。その2日間競技で、彼は初日「66」、2日目「68」の好スコアで見事に優勝する。ロングホールでは、ことごとく2オンに成功、イーグルとバーディは計算の内と彼は語っている。
「黒人には、血の中にリズムというものが遺伝されている。誰に教えられた訳でもないが、私のスウィングはテンポのお手本だと有名な白人プロも折り紙をつけてくれた。誰でも知っているその白人プロとも18ホールの真剣勝負をやったが、私が5打差で勝ったのはいいとして、自分が負けた話は内緒にして欲しいと言って500ドル、ポケットにねじ込んでいったよ。ホッホ、大儲けさ」
それからの5年間、彼はつねに60台のスコアで優勝し続ける。コースの難易度の高さからいって、それは信じられないスコアだとアル・バーコゥは書いている。しかし66歳まで、この天才ジニーはコースの管理人以外、職につけなかった。
「黒人の仲間には、途方もないゴルファーがいたよ。たとえばテディ・タック、ビル・ナッシュ、トーマス・フレンズなど、どいつもアンダーパー・プレーヤーだった。1970年ごろから、ツアーにも黒人の姿が見られるようになったが、それとて迫害の連続、森の中からライフルで狙うと脅かされながらマスターズに出場したカルビン・ピートの話は知ってるだろ?
私はプロにこそなれなかったが、それでも石を投げつけられたり、タイヤの空気を抜かれたり、ときには脅迫電話がかかることもあった。黒ン坊のくせにゴルフなんぞするな、というわけだ。渋々だが黒人にプレー権が与えられたころには、もう年を取りすぎて間に合わなかった。
全盛時には7ホール連続バーディ、18ホールで3つのイーグル、1日に2度のホールインワンも経験したが、いまとなってはむかしの話よ。
これまでのベストスコアかね? 1951年にアルバカーキで行われた黒人ばかりのゲームでは、初日『62』、2日目も『62』というのがある。その前日の練習ラウンドも『62』だったから、三日間で30アンダーになるわけだ。もちろん、ベースボール・グリップは最後まで直さなかった。
ティショットの平均飛距離は320ヤード、得意なクラブはピッチング・ウェッジだった。どんな場所からでも、このクラブならピンの2メートル以内に落とす自信があったよ。
バーバラとの間に3人の男子をもうけたが、みんな戦争で死んじまった。私の姿を見て育った子供たちは、ゴルフのクラブにさえ近寄ろうとしなかった。それが私にはとても哀しかった」
彼はまた、呟くように語った。
「ゴルファーとして当然のことだが、これまでにゴルフの歴史に関する多くの著書を読んできた。学ぶほど、このゲームの素晴らしさが理解できて、自分がゴルファーであることの誇らしさが息苦しいほどだった。反面、語られている矛盾に立腹したこともある。ゴルフでは平等の精神こそ尊重されるとあるが、黒人問題はどうなる?」
1994年、ジニーは孤独のうちに老人ホームの一室で人生の幕を閉じる。タイガー・ウッズが国民的英雄として迎えられるまでの歳月、こうした墓標が一体何本建てられたことだろう。ゴルフは偉大なゲームだが、それに関わる人間の矮小さが、いつの場合も哀しすぎる。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。