今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その33 褐色の墓標
有色人種お断りが常識だったアメリカゴルフ界
秋の夜長、ベッドに潜り込んで、アル・バーコゥの労著『Gettin’ to the Dance Floor』を読んでいたところ、長年捜し求めていた男が唐突に出現、思わず起き上がってしまった。
著者のアルは「ゴルフ・マガジン」の名編集長として鳴らした男であり、数々のゴルフに関する名著でも知られている。
彼は伝説の黒人選手、ジニー・ウィリアム・スピラーを捜し求めて全米くまなく走り回り、ついにオクラホマ州の片隅にある老人ホームで彼を発見する。ジニーというのはウォルター・へーゲンが名付けた愛称であり、「天才」が訛ったものだと伝えられる。
1913年生まれの褐色の天才は、そのとき78歳、しかし記憶力に翳りは見られなかった。彼こそ黒人ゴルファーの草分けであって、アメリカのゴルフ史がこれまでの長い歳月、ひたすら蓋をしてきた謎の人物だった。
老人は訪れたアルに、嗄れ声でついに陽が当たることなく終わった裏面史について語った。
「私が生まれたのは、オクラホマ州のティショミンゴという小さな町だった。9歳まで祖母に育てられ、それから父親のいるタルサに引っ越して行った。私は黒人とチェロキー・インディアンの混血だが、どちらかというと限りなく黒人に近いのは、見ての通りだ」
父親が土木工事の作業員だったこともあって、幼少時代から住居が転々と変わる。学校に行ったり行かなかったり、いきなり派手な身なりの継母が出現したかと思うと、不意にいなくなったり、どう見ても幸せな人生ではなかった。
1931年、父親がオクラホマのヒルクレストCCに雇われ、コースの管理人になると、彼もまた管理小屋の裏手に潜り込み、雑役夫として働き始めた。
ロッカールームの片隅に座って会員の靴を磨いたり、タオルを洗ったり、ときにウィスキーやビールなど買いに走って、いくばくかの賃金を得ていた。やがて大型の芝刈機が出現すると、日の出から日没まで草刈りが彼の仕事になった。雨降りの日に限って、グリーンキーパーがプレーを許可してくれた。
「生まれて始めてクラブを握ったときから、私はベースボール・グリップだった。18ホールのスコアが90を切るころ、クラブ所属のプロが、私のグリップの間違いを正そうとした。ところが全然当たらない。ついに匙を投げて、お前はそれでゴルフをやり抜けと言った。私は最後までべースボール・グリップのままだった」
1937年の夏、ジニーはキャディの大会で優勝する。クラブを握って6年目、そのときのスコアが「35・35」の「70」だった。1週間前に行われた州のアマ競技の優勝スコアより7打も少ないものだった。
「多くの人は、プロ転向をすすめてくれた。そこでウィルシェアCCで行われる予定の『ロサンゼルス・オープン』にエントリーしたところ、10ドル持参の上、クラブに来て申込書にサインするように言われた。すぐに駆けつけたところ、私の顔を見た係の男性が冷笑して言った。
『選手は白人に限る』
ゴルフ界に、私のいる場所は管理棟だけだと宣言されたわけだ」
ジニーは常にアンダーパーで回る腕前に成長したが、道は閉ざされたままだった。パブリックコースにしても、有色人種お断わりの圧力が強く、いつしか偏見の少ないニューメキシコ州に流れていった。
「これまでの人生で最もうれしかった出来事といえば、ある日突然、ツアー競技では11連勝の金字塔を打ち立てた不滅の天才、バイロン・ネルソン氏が手紙をくれて、私がなんとかするからテキサスの試合に来ないか、と誘ってくれたことだ。いまでもその手紙は後生大事に取ってある。しかし、彼の迷惑を考えると出掛けるわけにいかなかった」