新横浜ラーメン博物館・あの銘店をもう一度

朝食前に先代はなぜ一杯のラーメンを食べたのか 「春木屋理論」とは? 継承する一番弟子が創業「春木屋郡山分店」は弟子“三羽ガラス”で暖簾を守る

新横浜ラーメン博物館(横浜市)は、30周年を迎える2024年へ向けた取り組みとして、過去に出店した約40店舗が2年間かけて3週間のリレー形式で出店するプロジェクト「あの銘店をもう一度」を2022年7月1日から始めています…

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新横浜ラーメン博物館(横浜市)は、30周年を迎える2024年へ向けた取り組みとして、過去に出店した約40店舗が2年間かけて3週間のリレー形式で出店するプロジェクト「あの銘店をもう一度」を2022年7月1日から始めています。このプロジェクトにあわせ、店舗を紹介する記事の連載も同時に進行中。新横浜ラーメン博物館の協力を得て、「おとなの週末Web」でも掲載します。

平成6年に福島県郡山市で創業

第27弾は春木屋郡山分店さんです。春木屋荻窪本店で修業した一番弟子が平成6(1994)年に福島県郡山市で創業。現在は一番弟子のみならず、二番弟子、三番弟子も働き、来年で30周年を迎えます。

【あの銘店をもう一度・第27弾・「春木屋郡山分店」】
出店期間:2024年1月11日(木)~2024年1月31日(水)
出店場所:横浜市港北区新横浜2-14-21 
     新横浜ラーメン博物館地下1階
     ※94年組第4弾「大安食堂」の場所
営業時間:新横浜ラーメン博物館の営業に準じる

・過去のラー博出店期間
2004年1月15日~2011年3月13日

春木屋ラー博店(2004年撮影)

岩岡洋志・新横浜ラーメン博物館館長のコメント「70余年の歴史で弟子は4人。一番弟子が開業した郡山分店も30周年、縁を感じます」

1994年のラー博オープン以前に春木屋さんにお邪魔した時、ちょうど、一番弟子の手塚英幸さんが修行を終了し、これから郡山分店として独立するときで名刺交換し、何ともすがすがしい好青年で印象に残り、賀状のやり取りをしていました。

コラムにも書きましたが、もともと春木屋さんは外の血を入れないで方針で運営されていましたが、初代が引退するのを機に、初めてのお弟子さんを取ることとなりました。その最初のお弟子さんが手塚さんです。春木屋さんの弟子制度は相撲部屋のように、7年~10年かけて一人前になるまで独立することを許しません。弟子として認められる関係者全員で終了式を行い、修了式を終えた弟子は春木屋の暖簾を使っての独立が許されるのです。

70余年の歴史の中で認められたのは4人だけ。その内、一番弟子が1994年に福島県郡山市で開業し、二番弟子、三番弟子が集結したのが春木屋郡山分店です。

春木屋郡山分店の創業は当館と同じ1994年。郡山分店もまた30周年を迎えます。何か縁を感じるご出店で、期間中手塚さんが新横浜に常駐していただけるのも大変嬉しいです。

昭和24年創業、東京・荻窪の名店「春木屋」の歴史

昭和24(1949)年創業。東京ラーメンの礎となった東京・荻窪の地で確固たる地位を築き上げ、今なお影響を与え続ける荻窪中華そば「春木屋荻窪本店」(杉並区上荻1-4-6)。

創業者の今村五男さんは、大正4年(1915年)長野県下伊那郡の川路という町で生まれ、既に荻窪で「中国レストラン春木家」(平成16年閉店)を経営していた兄(今村国治さん)を頼って戦前に上京。ちなみに現在も運営している「春木家本店」(杉並区天沼2-5-24)も五男さんのご兄弟がやられています

創業者の今村五男さん

戦争になり、五男さんも兵役についものの、体格が小さかったことから、厚木にあった兵舎で、食事を作る担当になり、戦地へは行かなかったようです。終戦後、蕎麦店をやろうと思ったようですが、設備投資や、当時蕎麦粉が手に入りづらかったこともあり、鍋釜があればラーメン店ができるということで、現在の本店の場所に屋台を構えます。

ちなみに荻窪にある「丸長」、「丸信」の創業者は同じ長野県出身ということですが、顔見知りというわけでもなく、ラーメン作りにおける関連はありません。

その後、店は順調にお客さんがつき、昭和29年には土地を購入し、家屋を建て、店舗をかまえました。

店舗を構えた当時の外観

50年以上通い続ける常連、春木屋の魅力の原点

春木屋のお客さんの中には、50年以上通い続けている常連さんや、親、子、孫と三代に渡ってのファンがたくさんいるといいます。誰にでも、通い続けているお店というものはあると思いますが、人生の半分以上をも虜にさせるお店は果たしてあるでしょうか?

そこまで虜にさせる「春木屋」の魅力とは、いったいどのようなものなのか。それは純粋に先代夫婦が「美味しいラーメンを作って、お客さんの笑顔を見たい」という想いが原点にあるのです。

今村五男さんとフミさん夫妻

時代とともに少しずつ味を変える

「最近あそこのお店、味落ちたよな」「昔は美味しかったのにな」こんな言葉をよく耳にすることがあります。しかし果たしてそれは本当に味が落ちたのでしょうか?この問いこそが春木屋が現在に至っても行列を作っている揺るがない理由なのです。

先代曰く「食糧事情が良くなるにつれ、お客様の舌もおのずと肥えていくものです。同じ味を出し続けていれば“味が落ちた”といわれるのは当然です。だからこそ常日頃から味の研究を重ね、時代の変化とともにベースとなる味は変えずに、お客様に分からないように少しずつ味を変えてきました。これを続けることによって初めて“いつも変わらなく美味しいね”と言われるのです」

春木屋荻窪本店の中華そば

朝食前のラーメンで「味の変化を見極める」

先代は昭和63年に現役を引退するまでの間、毎日欠かさず続けていた事がありました。それは朝食の前に一杯のラーメンを食べる事でした。一切過食や夜更かしをせず口を清め、味の変化を見極めていました。

「自分が毎日食べて飽きるものを、お客さんに出せるわけない」この真面目な職人気質は後の二代目、そして弟子たちへ継承されていくのです。

このことを誰が言ったのか「春木屋理論」と言い、多くのラーメン店が理念に掲げています。

常連を虜にする“おもてなし”

お店の行列が長くなると、常連さんは去っていくといわれますが、「春木屋」の常連さんは今も通い続けています。その理由は、五男さんの奥さんのフミさんがお客様の心をつかみ虜にしてしまう「おもてなし」があるからなのです。

今村五男さんと二代目の幸一さん

先代が作り上げた「いつも変わらず美味しいラーメン」をさらに美味しくするのがフミさんの役割なのです。お客様に美味しく、気分良く食べていただくため、フミさんはお客様と会話をしながら顔とその好みを覚えていったのです。その数は200人を超えるといいます。またその好みは、微妙な脂の量であったり、麺の茹で時間であったりと非常に細かいのです。常連さん曰く、このやりとりがたまらなく嬉しく、ほっとするそうです。このフミさんの想いが厨房に立つ先代にも伝わり、フミさんとのあ・うんの呼吸でお客様をもてなしてきたのです。

先代が引退、弟子制度の導入

先代が引退する年、「春木屋」に新たな時代が訪れました。

それは昭和61年の暮れの出来事でした。行列はますます伸び70歳を目前とした先代もフミさんも、思うように体が動かなくなっていたそんな最中、来年卒業を迎えようとする高校生が父親と春木屋を訪れたのです。

その高校生の名前は手塚英幸さん(現・春木屋郡山分店社長)。腕一本で家族を不自由させない職人の姿に感銘を受けた手塚氏は、進学せず職人の世界に入ることを決心していました。18歳の冬、何気なく買った本が手塚氏の、春木屋の運命を変えることになるのです。その本に掲載されていた先代の言葉は、まさに手塚氏が志していた職人のあり方だったのです。

春木屋一番弟子となった手塚英幸さん(2003年撮影)

当時の春木屋は弟子を取る制度がなかったのですが、手塚氏の情熱に押され春木屋の歴史の中で始めて外部からの人間が入る事となるのです。当時を振り返り、採用に踏み切った今村正子さんが言うには「もしあの時、彼を受け入れなかったら、現在春木屋はなかったのかもしれません」とのこと。春木屋にとっても手塚氏にとっても運命を左右する1日だったのです。

そしてその数カ月後、もう一人のラーメン職人を志す若き青年が春木屋を訪れたのです。彼の名は高橋充さん。職人家系である高橋さんは手塚さん同様に、小さい頃から職人の世界で活躍する夢を抱いました。中でもラーメンには特別な想いがあった高橋さんは、高校生になるとラーメンの食べ歩きを始める。その食べ歩きの最初に訪れたのが春木屋だったのです。その後も食べ歩きを続けるのですが、高橋さんの脳裏には、カウンター越しに見た先代の姿が焼きついていたのです。

その1年後には、兄の影響を受けた手塚雅典氏が弟子入りをし、同じ志を持つ若き3人が、三羽ガラスと呼ばれる春木屋の新たな時代を築き上げていくのです。

左から初代、二代目、二代目夫人、三羽ガラス(2003年撮影)

春木屋の修業期間は7~10年、修了式を終えて「独立」

近年のラーメン店での修業期間は長くても3年といわれているなか、春木屋の修業期間は7年~10年を要します。相撲部屋や和食の世界のように親子同然の気持ちで育て、春木屋の人間として一人前になるまで独立することを許しません。

「一人前になる」という意味はもちろん技術もあるのですが、先代夫婦が築き上げた精神が身についているかを判断するのです。

春木屋では、今ではあまり見られない「修了式」を関係者全員で行い、修了する人間の家紋が入った紋付袴と包丁が贈呈されるのです。そして修了式を終えた弟子は春木屋の暖簾を使っての独立が許されるのです。

手塚英幸さんの修了式

「一番弟子の手塚が手伝うのであれば」と、ラー博出店

「春木屋」さんは1994年の開業時から出店のお声がけをしていたのですが、そのタイミングでの出店はかないませんでした。その後も幾度となく本店を訪れ、ある時「独立した一番弟子の手塚が手伝うのであれば」という条件の元、2004年1月に新横浜ラーメン博物館への出店が決まりました。

春木屋の新たなる歴史を刻むのは、昭和62年郡山から春木屋に弟子入りを希望した一番弟子の手塚さんと、その数カ月後、同じ志を持ち店を訪れた、二番弟子の高橋充さんそして手塚英幸氏の実弟である手塚雅典さん。先代が引退したあとの春木屋を引っ張った「三羽ガラス」です。

春木屋三羽ガラス。左から、手塚雅典さん、手塚英幸さん、高橋充さん

今回のあの銘店をもう一度では、その三羽ガラスが今も働く「春木屋郡山分店」としてご出店いただきます。

春木屋郡山分店

麺づくりは早朝6時から、先代から受け継ぐ熟練の技

「春木屋郡山分店」の麺作りは早朝6時から始まります。春木屋郡山分店で使用される麺は創業以来自家製麺。麺は、スープとのバランスを考え、その時々によって一番美味しいと思われる太さとコシに調整。また季節やその日の湿度によって水分の量を変えています。そして圧巻なのは手もみ作業。強くもむと麺肌がざらざらになってしまい、手もみをしないとプリプリとした食感が味わえません。この熟練の技は先代からの伝承です。

春木屋の手もみシーン

【食欲をそそる煮干の香りが漂うスープ】
「春木屋郡山分店」のスープの特徴はなんといっても煮干の風味です。もともと先代の実家が日本蕎麦を営んでいたことがきっかけで、この煮干が採用されたようです。風味は強いのですが、スープを飲んでみると、それほど前面に出ておらず、いろんな種類の旨みが口の中で融合します。見た目はシンプルでありますが、キレとコクを兼ね備えた唯一無二のラーメンです。

タレは蕎麦屋の影響か“かえし”と呼び、うなぎのタレ同様に創業以来継ぎ足したタレは時代とともに深みを増しています。

春木屋郡山分店の中華そば

「春木屋郡山分店」の味が味わえるのは2024年1月11日(木)~1月30日(水)の3週間です。皆様のお越しをお待ち申し上げております。

【春木屋郡山分店】
福島県郡山市桑野2-16-13
024-922-0141
https://www.harukiya-bunten.com/

『新横浜ラーメン博物館』の情報

住所:横浜市港北区新横浜2-14-21
交通:JR東海道新幹線・JR横浜線の新横浜駅から徒歩5分、横浜市営地下鉄の新横浜駅8番出口から徒歩1分
営業時間:平日11時~21時、土日祝10時半~21時
休館日:年末年始(12月31日、1月1日)
入場料:当日入場券大人450円、小・中・高校生・シニア(65歳以上)100円、小学生未満は無料
※障害者手帳をお持ちの方と、同数の付き添いの方は無料
入場フリーパス「6ヶ月パス」500円、「年間パス」800円

※協力:新横浜ラーメン博物館
https://www.raumen.co.jp/

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