陸奥宗光が見込んだ「語学力」と「粘り」 アメリカから戻った小村は、司法省の判事になります。4年後には外務省へ異動となりますが、上司とそりが合わず閑職に追いやられました。その頃父の事業が失敗し小村家は多額の借金を抱えること…
画像ギャラリー『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
身長は低く、あだ名は“ネズミ公使”
飫肥(おび)城は日本百名城に数えられていますが、読者のなかにはこれが宮崎県日南市の城だとご存じの方は多くないかもしれません。ただ、この飫肥城下からは、偉大な外交官が生まれています。小村寿太郎といえば、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約締結時の日本側全権であり、さらには幕末以来の不平等条約、つまり関税自主権の回復を果たした男として知られています。
彼は身長が145cmくらいしかなかったそうで、ロシア人やアメリカ人からは、子どものように見られたでしょう。また容貌も決して優れていたわけではありません。北京に駐在した時には“ネズミ公使”というあだ名をもらっています。しかしその交渉術は誠実で粘り強く、交渉相手国にとってはとてもタフな相手でした。
小藩から官費留学を勝ち取った「郷土の誇り」
今回は飫肥が生んだ日本最高の外交官のひとり、小村寿太郎のお話をしましょう。
小村寿太郎は安政2(1855)年、飫肥藩の下級武士の長男に生まれます。この年はペリーが浦賀にやってきた2年後で、彼がちょうど生まれる頃に不平等条約である日米和親条約、日露和親条約が結ばれています。日本が激動の渦に巻き込まれるのと時を同じくして、小村は育っていくのです。
小村は身体が小さくて病弱でしたが、藩校・振徳堂(しんとくどう)に入学するや勉強に励み、8年間無欠席で通いました。振徳堂を卒業するとほぼ同時に、明治維新となりました。その後は大学南校(後の東大)に進学し、成績優秀によりハーバード大学法学部への官費留学が認められます。飫肥藩という小藩から官費留学を勝ち取った、まさに「郷土の誇り」です。
陸奥宗光が見込んだ「語学力」と「粘り」
アメリカから戻った小村は、司法省の判事になります。4年後には外務省へ異動となりますが、上司とそりが合わず閑職に追いやられました。その頃父の事業が失敗し小村家は多額の借金を抱えることになります。その小村を救ったのが、時の外務大臣・陸奥宗光です。小村の語学力と粘り強さを見込んで、外交官に復帰させたのです。
その頃陸奥宗光は、幕末に結んだ不平等条約の改正に取り組んでおり、明治27(1894)年、大国イギリスを嚆矢として15カ国から、治外法権の撤廃を勝ち取りました。残った不平等条約は関税自主権です。その重責を小村に託したのです。小村は駐米公使、駐露公使、駐清公使などを経て、明治34(1901)年、外務大臣になります。大臣になっての最初の大きな仕事が、翌明治35(1902)年に締結した日英同盟でした。狙いは、ロシアの南下に対抗することでした。
外交官の心得は「ウソをつかぬこと」
日露の緊張は高まり、明治37(1904)年、ついに日露戦争の火蓋が切って落とされました。結果、ロシアに勝ったことは勝ちましたが、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介を得て、小村がなんとか講和締結に持ち込んだというのが実情でした。財政難で、日本はこれ以上戦争を続けられなかったのです。賠償金こそ取れなかったものの、ポーツマス条約では、南樺太の割譲や南満州鉄道の譲渡、韓国の実効支配など、大きな成果を上げました。その粘り強い交渉術は、仲介役のルーズベルトも舌を巻いたといわれます。
彼の交渉術はどのようなものだったのでしょうか? 彼は、外交官としての心得とは何かと問われ、「ウソをつかぬこと」と答えています。国家間での交渉も人と人との交渉ごと。何よりも相手から信頼を得ることが重要と考えていたのです。
「正直であれ」故郷での講演会と、関税自主権の回復
小村には面白いエピソードが残っています。ポーツマス条約を締結し、故郷に戻った際、県立宮崎中学で講演会を開いたのです。雄弁な話を期待した学生たちを前に小村は、「正直であれ、正直は何より大切である」とだけ語り、講演会はわずか1分で終了しました。
ポーツマス条約締結での小村の粘りと誠実さを見たアメリカほか列強各国は、明治44(1911)年、ついに日本の関税自主権の回復を認めました。そしてその直後、小村は肺結核で亡くなってしまいます。まるで、条約改正のための生涯であったかのようでした。
【飫肥城】(別名・舞鶴城)
鎌倉時代からこの地を治めた日向伊東氏は、島津氏と争うが、伊東祐兵(すけたか)が、九州平定に乗り出した豊臣秀吉につき、飫肥の地を与えられた。関ヶ原の戦いでは東軍につき本領を安堵。飫肥藩5万7000石の初代藩主となる。5代藩主・伊東祐実(すけざね)の大改修で城郭の体裁が整ったとされる。明治6(1873)年、破却されたが昭和53(1978)年に大手門、昭和54(1979)年に松尾の丸御殿が再建された。
住所:宮崎県日南市飫肥10丁目
【小村寿太郎】
こむら・じゅたろう。1855~1911年。飫肥藩士の長男として生まれる。大学南校(東京大学の前身の一つ)から法律の勉強のため、アメリカ・ハーバード大学に留学。帰国後は司法省に入り、外務大臣・陸奥宗光に認められ、清国ほかで外交官として活躍した。明治34(1901)年、桂太郎内閣で外務大臣となり、翌年には日英同盟を締結。日露戦争の勝利を受けて明治38(1905)年、ポーツマス条約を結ぶ。大陸政策を進め、日本の地位向上を図り、明治44(1911)年、幕末以来日本の悲願だった関税自主権の回復を果たした。身長が低くやつれた表情とすばしっこい動きから清国駐在時はネズミ公使とあだ名されたという。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」